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キャリアの黎明期 ゴウ・ホトダさんインタビュー(上)

20130527.jpg 5月27日付「音楽の現場」面では、世界的に活躍する音楽プロデューサーのゴウ・ホトダさんのスタジオを訪ねました。
 
 長いキャリアを持つホトダさん。音楽の話は尽きません。今日から3回に分けて、紙面に掲載できなかったこぼれ話をお届けしようと思います。初回は、ご自身のキャリアの黎明(れいめい)期について一問一答で語っていただきます。

-最初の音楽体験はどんなものだったんですか?
「母親が音楽の先生だったんですよ。それもあって、音楽に触れる機会は多かったと思います。テレビを禁じられていたので、流行歌に触れることは少なかったですね。クラシック音楽しかチョイスがありませんでした」

-いわゆるポピュラー音楽との出合いはいつごろでしたか?
「70年代に一家でアメリカに移り住んでからです。相変わらずテレビは見させてもらえなかったので、ラジオをよく聞いていました。昔のアラームラジオで、デジタルの表示がパタンパタンとなるのものがあって」

-時計もついているラジオですね。
「そうです。そのラジオのつまみをグルグル回すと、いろいろな局が入る。つまみを1ミリ動かすと1つ必ず出てくるという感じで、すごくびっくりしたんです。こんなにいろいろな音楽があるんだ、という。ちょうど『ビートルズの新曲』として『Let It Be』 がいっぱいかかっている頃でした」

-解散直後ですね。
「そういうことですね。時代はニクソンのウォーターゲート事件があって、ベトナム戦争のさなか。ジョーン・バエズの反戦歌が、どこのラジオ局でもかかっていた。ソウルミュージックもたくさん聴きました。そのあたりが、自分にとってのポップスというかいわゆるクラシックではない音楽の原体験ですね」

-ジャンルを意識せず、ラジオが流す音楽を貪欲に聴かれていたと。
「小学校5年生ぐらいだったので、黒人の音楽なのか白人の音楽なのか、時代背景もなにもわからない。そういう立場で得た音楽の印象は、非常に新鮮でしたね。強烈でもあったし」

-レコーディングエンジニア、ミキサーなどのお仕事を志したのはいつごろですか?
「昔は指揮者になりたかったんです。すべての音をコントロールする。考えてみたら、今やっていることとあんまり変わりませんね(笑)。エンジニアになろうと思ったのは、その10年後の20歳前後のとき。その間、日本とアメリカを行ったりきたりしていたんです。母親がシカゴで日本料理店を始めることになって、開店を手伝った。その後、1980年ぐらいにシカゴのスタジオで、夜だけのアシスタントを始めました」

-シカゴでキャリアをスタートされたと聞いて、ハウスミュージックのメッカだったことも理由かと思っていました。でも偶然だったんですね。
「そうです。そこは偶然、黒人が経営するスタジオだったんですよ。スタッフは全員黒人。でも不安感は全くなかったですね。やってる音楽のテンポに非常に感銘を受けました」

-その時期のアメリカで、音楽業界に日本人はほとんどいませんよね。将来の見通しのようなものははっきりしていましたか?
「最初はスタジオの片付けとか、お客さんのセットアップをするとか。そんな仕事ばかりでした。リック・ジェームスが使った、整髪料でベトベトのヘッドホンを拭いたこともありますよ。グラディス・ナイトやザ・ステイプル・シンガーズも使っていました」

-スタジオワークのいろは、音をどう扱うかということの基礎を学んだわけですね。
「そうです。学校で教わってはいないんです。そのスタジオのスタッフたちがやっているのを見て、教わっただけなんですね」

 

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