軸足をミキサーに ゴウ・ホトダさんインタビュー(中)
-レコーディングエンジニアから、ミキサーに軸足を移したのはいつごろでしょうか?
「1987~88年頃ですね。シカゴから、ニューヨークに行くかロサンゼルスに行くか迷ったんです。ロサンゼルスにはレコーディングエンジニアとして、有名アーティストと一緒に録音しながら音楽を作っていくという仕事が用意されていた。ニューヨークからは、いろんな人たちの曲のミックスをするお誘いがあった。どちらにしようか、いろいろ考えたのですが、当時父が住んでいたこともあって、ニューヨークでやろうと決めて」
-もしロサンゼルスに行っていたら、マドンナやビョークとの出会いもなかったかもしれないわけですね。ミキサーを選んだ一番の理由は?
「やっぱり『指揮者』になりたかったんですね。すべてを自分の意のままにコントロールしたいという」
(写真)ミックスを担当したマドンナのベスト盤「ウルトラ・マドンナ」(1990年)のプラチナディスク。メガセールスの証しだ
-当時、ミックスやリミックスという仕事はどういう位置づけだったんでしょうか?
「シカゴから、ハウスミュージックのやりかたを持ってニューヨークに行ったのは、運が良かった。当時は、クラブでかける12インチレコードと言えば、間奏でソロを抜いてドラムとベースだけになったりとか、今考えると原始的なものでした。僕らがシカゴからニューヨークに持ちこんだのは、音素材にプログラミングして音をさらに足していくという作業。より抽象化したり、ドラムの音をモダンな感じにしたり」
-ハウスが広がっていく時期と重なりますね。
「ニューヨークでは『ハウスミュージックってどうやってやるんだ』って一番最初に聞かれました。それまではアーティストのオリジナリティーを尊重したエクステンデッド・バージョンがリミックスの主流だったんですけど、それをあえてひっくり返して。そぎ落としたドラムとキックと歌だけとか、それが非常に受けたんですよね」
-その後、マドンナやジャネット・ジャクソンなど、特に女性アーティストと良い出会いがありましたね。
「マドンナと仕事するようになったのは、彼女のリミックスのプロデューサーがシェップ・ぺティボーンだったことがきっかけ。僕は彼のエンジニアだった。彼の仕事はほとんど僕がミックスしたわけです。マドンナはハウスミュージックをすごく気に入っていて。(後にシングルになる)『ヴォーグ』をお遊びでB面用にミックスしてくれという話になったんです。その前に、ジャネットのミックスをしたんですが、そのときに作ったトラックを、プロデューサーのジャム&ルイスは『そんなオカマみたいな音楽はダメだ』と(突き返してきた)。シェップはそのトラックをずっと温存していた。マドンナから話があったときに、それを出したら彼女が気に入ってくれた」
-歌詞は?
「マドンナが持って帰って自分で作ったんですよ。僕はダブミックスもつくった。イントロから何から全部違うバージョン。それをマドンナが聴いて『これでビデオを作りたい。その代わりもうちょっと短くしてくれ』と。そういういきさつがあって、『ヴォーグ』は形作られていったんです」
-宇多田ヒカルさんのデビューアルバム「ファースト・ラブ」もミックスを担当していますね。
「レコード会社の東芝EMIのディレクターが『すごい新人をみつけた。ミックスをしてくれないか』と頼んできたことを覚えています。日本デビューの前に、お父さん(宇多田照實氏)を交えて、ニューヨークで初めて会いました。当時、15歳ぐらいだったはずですが、ずば抜けて歌がうまかったですね」
-どんな音を目指していたのですか?
「ディレクターのビジョンは明確で、渋谷の女子高生たちが夢中になっていたマライア・キャリーや洋楽のR&Bのようなサウンドに、日本語の歌詞を乗せた音楽を作ろうというものでした。サウンドの切れ方は洋楽のモダンな感じで。ハーモニーやコーラスが何層にもなっていて」
-初アルバムの録音時、宇多田さんはどんな様子でしたか?
「堂々と歌っていました。自分の歌に自信があったんでしょうね。全く動じていませんでした。才能のある人は、こういうところではっきりしていますよね。ライブでもレコーディングでも同じ。どんな場所でも力を発揮できるんです」
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