「増山たづ子 すべて写真になる日まで」展を見て
昨年10月からIZU PHOTO MUSEUM(長泉町)で開かれている写真展「増山たづ子 すべて写真になる日まで」を、遅ればせながら鑑賞しました。「被写体」は2008年に完成した徳山ダム(岐阜県)の底に沈んだ旧徳山村。村民の一人増山たづ子さん(故人)が撮影した膨大な写真資料の中から、約480点が展示されています。突きつけられた現実への諦念と古里への愛着が伝わる、胸を突かれる展覧会です。(橋)
増山さんはダムの計画が現実味を帯びてきた1977年、コンパクトカメラ「ピッカリコニカ」で村の風景や人々の撮影を始めます。
国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる
太平洋戦争でご主人を失っている増山さんは、あきらめに似た気持ちの中で「残せるものを残そう」と考え、思いついた手段が写真でした。
村祭り、元服式、小学校の運動会・・・。増山さんは自分にとって、そして村にとってかけがえのない風景をフィルムに収めます。
写真にある人々の穏やかな笑顔とは裏腹に、村はダム推進派、慎重派に二分されていきます。写真と写真の合間に記された増山さんの心情は、掲げられたのどかな山村の風景とは対照的です。
ダムになっちゃかなわんてな。はじめは村一丸となって反対したんだけど、途中から割れたな。若いもんがどんどん町へ出ていくという過疎の問題があってな、この際ダムになったほうがいいという促進派とな、大事なふるさとを水底に沈めてまったら、ご先祖様に申し訳がないという反対派に分かれたな。
補償金を得て、次々に村を出て行く人々。増山さんも1985年、苦渋の思いで村を後にします。
イラ(私)は、個人補償の袋をもらっても中身も見ずに、仏壇に供えて泣いたな。「本当に申し訳ありません、ご先祖様、イラにはどうすることもできないんだ。
そして迎えた「ミナシマイ(終わり)」の日。家を取り壊した時の写真に添えられた一文には、胸を締め付けられました。
家を壊すときに、御先祖様に申し訳がないと言って、見えないように墓石に晒を巻いた。
旧徳山村から移住したのは466戸だったといいます。古里が国策に殉じる。決して人ごととは思えないのは私だけでしょうか。
会期は7月27日まで。6月1日午後2時半から、展覧会の関連イベントとして本橋成一さん(写真家・映画監督)、大石芳野さん(写真家)、小原真史さん(IZU PHOTO MUSEUM研究員)のトークイベントが開かれます。会場は同館に隣接するクレマチスアカデミーフォーラム。申し込み先着50人限定だそうです。
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