栗コーダーカルテットとの対話(中)
10月7日夕刊「情熱細胞」に関連した、「栗コーダーカルテット」のインタビュー第2弾です。近藤研二さんの発言がありませんが、所要でインタビュー途中に退席されたためです。第1弾はこちら。(橋)※発言者敬称略
▼活動開始から20年。最新ベストを含めてオリジナルアルバムは15枚を数えます。結成当初、ここまで長い活動になることを予測していましたか?
川口義之「まったく思っていなかったですね」
関島岳郎「1回だけの企画ライブだと思っていました」
川口「前期の10年は、いろいろなことがなんとなく先に決まっていったという感じです。周囲の音楽家も面白いと言ってくれたし、仕事のオファーもきて。ただ、こういう活動はいつ終わるかわからない。だから形に残した方が良いと思って、10周年のときに僕が企画して5日間公演をやりました。いろいろなゲストを呼んで、映像を残そうと。そのあたりから『これはずっと続けた方が良さそうだ』ということになった気がします」
▼子供向けのコンサートが増えだしたのもそのころでしょうか?
関島「そうですね。水戸芸術館だったかな。小学3年生向けのコンサートとワークショップをやってくれと声をかけられた。その後が飯能だったかな」
栗原正己「そっちの方が先だったかもしれない」
川口「それまでは、割合にひねったものが好きな大人が面白がって聞いてくれていた。やる方もそういう気持ちでした。でも、だんだんいろいろな人に楽しんでもらえるということに気付きはじめたわけです。『ホッとした』とか『救われた』なんて言ってもらえるようになって」
▼活動の幅が広がったわけですね?
関島「広がりましたね。ホールに限らず、学校での演奏もそうですね」
川口「ここ5年で特に増えました。一方で、(バンドとしての)『色』のようなものも付いていった。5年前ぐらいにインプロビゼーションをやったら、かなり不評でしたね(笑)。『ああいうことをやらないでください』という意見が来たりして」
▼クラシックから唱歌、映画音楽、ロックなどカバー曲の多彩さも栗コーダーカルテットの特徴の一つだと思います。選曲の基準はあるんですか?
川口「ある時期からは発注を受けるケースが多いんです」
栗原「初期は、世の中に知られていないけれど楽器で演奏すると良い曲を自分なりに選んでいました。バート・バカラックもそうだし、古楽の中にもポップで良い曲があったので」
関島「『川口くんのおすすめトラッド』も、そのころからやっていました」
川口「イギリスのロックバンドが遊びで出したアルバムから(名前を)取りました。バカラックは近藤君が変わった映画のサントラから持ってきた」
栗原「いい曲があれば出典を問わずに取り入れようという意識は当初からありました。(活動が)軌道に乗ってからは、外的な要素が出てきた。コンピレーション作品に声をかけてもらえるようになったり」
▼全員が曲を作るのもこのバンドならではです。活動を続ける中で、役割は明確になりましたか?
関島「初期は別のバンドでやっていた曲をこの編成でやった方が面白いと思って持って来たりしていて、気持ちの上でそんなに(他のバンドと)差はなかったんです。だんだんこの編成を意識して作るようになった」
川口「3枚目あたりから(そうした意識が)強まったんじゃないかな」
栗原「それぞれのキャラクターが確立されて、『自分はここかな』というのが何となく出てきました」
関島「僕はパートごとにあらかじめアレンジしておきます」
川口「僕はジャム形式で作ることが多いですね」
栗原「そうすることで川口の色が出やすいということもある」
川口「メンバーそれぞれがいろいろなバンドのサポートもするし、アレンジャーですし。面白くなることがほとんど。このメンバーで曲を作るのはぜいたくだな、とつくづく感じます」
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