【現論】急がず立ち止まるべき 共同親権 命に関わる問題(林香里/東京大教授)

林香里氏
林香里氏

 離婚後の共同親権を導入する民法改正案が衆院本会議で可決された。参院での議論を経て、今国会で成立する見通しだと報じられている。
 世界的潮流では、ドイツ、英国、フランスなど、主要国はすでに共同親権を導入しており、単独親権のみを認めるのはインドやトルコなど少数派。親が別居・離婚後も父母双方が子どもに継続的に関わることは子の発達や福祉のために望ましいとする制度趣旨は理解できるし、「配偶者に子を連れ去られた」と悩む父母たちがいることも知っている。私も当初はこの改正は良いことではないかと漠然と思っていた。
 しかし、ソーシャルメディアや女性関連団体のメーリングリストにつぎつぎと集まる当事者の声を読むと、事はそう簡単ではないと分かる。破綻した夫婦関係において、親であるならば子育てに関与し続ける方が良いという価値観を押し付けることは、乱暴だと思うようになった。
 とりわけ、ドメスティックバイオレンス(DV)の加害夫と離れて、ようやく安全な生活ができるようになった被害女性と子どもたちにとって、共同親権の導入は命に関わる法改正になりかねない。
 そうであるのに、法務省はこの法改正を急いでいる。たとえば、昨年公表したパブリックコメント(意見公募)の「概要」では、慎重派の個人の意見を十分に反映せず、推進派団体の意見が平均を上回る件数で掲載され、推進派の意見が多く見えるようにしていたと思われる。

 政府目線が先行
 新聞のデータベースで検索したところ、共同親権については2000年代初め以降、日本人の妻たちが居住国から子どもを不法に連れ去ったとされるトラブルが国際問題化したことが今日までの議論の流れに影響している。16歳未満の子どもを一方の親が勝手に国外に連れ去った場合、原則として元の居住国に戻さなければならないと定められているハーグ条約を、日本は14年、主要国(G8、当時)最後の加盟国として締結した。
 ただし、日本の加盟が遅れていたのは、海外でDVを受けた女性が子どもを連れて帰国したケースが多いためだった。このように、日本における共同親権導入の発端のひとつは、「破綻した国際結婚」による「日本人女性の子の連れ去り」に対する欧米諸国からの苦情対応だった。
 そして、そこから先進国の一員として「欧米との足並みをそろえる」という政府目線が先行した。当時の全国紙を見ると、それに同調する意見が多かった。
 だが昨年以降、こうした議論の流れは徐々に変わってきた。変えたのは、ネット上に集まる女性たちの声だ。とりわけDVや虐待の被害者の視点が軽視されている審議の様子に危機感を抱いた当事者や支援者たちは「ちょっと待って共同親権」と称してオンライン署名を開始し、議論にブレーキをかけるアクションを始めた。すると4月24日現在で、22万筆以上もの署名が集まった。

 子育てしやすい社会
 多くのシングルマザーたちの窮境はこれまでも指摘されてきた。彼女たちは子どもを育てながら再就職先を見つけなければならず、そうなるとパートなどの非正規雇用となり、低い収入に甘んじることになる。
 それにもかかわらず、離婚後に養育費を受けている母子世帯は28・1%に過ぎない。母子世帯の平均年間収入は272万円で、父子世帯の518万円を大幅に下回り、母子世帯は生活にまったく余裕のない状態に置かれる(「令和3年度全国ひとり親世帯等調査」より)。
 加えてDVや虐待への対応、被害者支援も遅れている。つまり、日本社会では、女性たちが自立して生きるための経済的保障と安定した生活のための仕組みがほとんど整っていない。
 国際社会で「一般的」だからという理由で政府は法改正を急いできた。しかし、ここは一度、シングルマザーたち、とりわけDVや虐待から逃れ、身の安全さえ確証がもてずに暮らす被害者たちのために、立ち止まらなくてはいけない地点に来ているのではないか。
 そうすることはまた、共同親権を推進する側を含めたすべての人にとって子育てをしやすい社会を実現するために、十分意義ある時間となるはずだ。
 (東京大教授)

 はやし・かおり 1963年、名古屋市生まれ。88年から91年までロイター通信東京支局勤務。東京大助教授などを経て、2009年から現職。専門はジャーナリズム論。21年から東京大理事・副学長を兼務。著書に「メディア不信」など。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞