家康に思いはせ 磐田市見付地区、幻の城「城之崎城」

 磐田市のJR磐田駅から北東へ約2キロ。市街地に程近い見付地区の丘の上に磐田城山球場がある。その名が示すように、そこはかつて、徳川家康が居城にしようとした「城之崎城」の築造地だった。築城開始からわずか1年で家康は引馬城(後の浜松城)に拠点を移し、城之崎城は未完成のまま放棄された。もし完成していたら―。地元の歴史愛好家らは親しみを込めて「幻の城」と呼び、当時に思いをはせている。

上空から見た磐田城山球場(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から、写真部・杉山英一)
上空から見た磐田城山球場(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から、写真部・杉山英一)
磐田市 見付地区
磐田市 見付地区
城之崎城の平面図「遠州見付古城図」(名古屋市蓬左文庫所蔵、画像の一部を加工しています)
城之崎城の平面図「遠州見付古城図」(名古屋市蓬左文庫所蔵、画像の一部を加工しています)
上空から見た磐田城山球場(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から、写真部・杉山英一)
磐田市 見付地区
城之崎城の平面図「遠州見付古城図」(名古屋市蓬左文庫所蔵、画像の一部を加工しています)

 

戦国遺構、球児熱戦の舞台に

 

 家康は1560年の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれたのを機に独立。家康はその後、遠江に進出し、義元の跡目を継いだ氏真が籠城する掛川城に攻め込んだ。2022年10月に「徳川家康公と磐田」を自費出版した磐南文化協会の冨田泰弘さん(43)によると、戦いに必要な物資を供給する後方支援基地として1569年、見付で新しい城の普請に取りかかった。


photo02 球場スタンドに活用されている高さ約10メートルの土塁。今でもその規模を感じることができる=10月中旬、磐田市見付地区  

 築城場所は当時、西から南側は湖岸、東側は沼地に面した標高20メートルの半島状台地の中央に位置した。現存する城の平面図『遠州見付古城図』(名古屋市蓬左文庫所蔵)には、東西を横断する東海道に加え、舟が停泊できる入り江も記され、水陸の交通の要衝でもあったと推察される。
 掛川城攻め開始から1年足らずで氏真を攻略し、遠江の大半を手中に収めた家康。見付が遠江の政治・文化の中心として栄えていたことを踏まえ、城之崎城を攻撃拠点の「陣城」から「居城」に切り替え築造を進めた。
 なぜ、完成を待たずに城造りを中止したのか。「遠江国風土記伝」に記されている用水不足に加え、市文化財課によると、対立していた武田信玄の侵攻を受けた場合、天竜川を背に戦うのは戦術的に不利と家康が考えたというのが通説だ。


photo02 球場の周囲に設けられた通路。両側から土塁の遺構を眺めることができる=磐田市見付  

 一方、冨田さんと静岡古城研究会の増田慎司さん(48)は、当時の見付の町衆に着目。「本来、町衆らは、戦国大名に従う立場。だが、見付の町衆は自分たちで町を運営し、全国でも稀な自治都市だった。大名による城下町を造るうえで、家康が統治しにくかったのでは」と見解を示す。
 1981年、城之崎城の本丸に相当する本曲輪(くるわ)の上に球場が建てられ、今では高校球児が毎夏、熱戦を繰り広げる舞台になった。土塁はスタンドにも活用されていて、今でも高さ約10メートル規模の土塁を見ることができる。近くの城山中の敷地には東曲輪もあった。


photo02 土塁を活用して整備された球場=磐田市見付  

 「球場改修のタイミングで発掘調査をすれば、新たな発見があるのではないか」と冨田さん。「城之崎城が家康の居城のままだったら、後に天守閣が建ち、城下町となった磐田は大都市になっていたかもしれない」と歴史の“もしも”に想像を膨らませる。

 

家康ゆかりの文化財で活性化 市職員有志が検討

 

 磐田市見付地区には、徳川家康ゆかりの文化財が残る。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送に向け、市職員有志のプロジェクトチーム(PT)が、こうした歴史資源を生かした地域活性化策を検討している。


photo02 家康が戦で命を落とした武将たちの冥福を祈って寄進した釣り鐘=磐田市見付の宣光寺  

 宣光寺には、家康が戦で命を落とした武将たちの冥福を祈り寄進した釣り鐘が現存する。旧見付学校には、三方ケ原の戦いで家康が浜松城に敗走した際、重臣の酒井忠次が打ち鳴らしたとされる「酒井の太鼓」がある。
 PTは今後、家康にまつわる歴史を発信して、市外からの誘客拡大につなげたり、市民には魅力を再認識してもらったりする事業のアイデアを練る。PTメンバーで収納課の中丸敬一さん(49)は「家康公と地域の関わりを市内外の人に知ってもらい、磐田への関心を高めたい」と意欲を示す。

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