小山町須走地区 江戸時代は「富士講」拠点、自衛隊の街として活気

 富士山の東麓に位置する小山町須走地区。江戸時代には信仰の対象として登山する「富士講」の拠点となり、大いににぎわった。当時、登山の世話をしたのが「御師(おし)」と呼ばれる人々。宿舎や食事の提供だけでなく、道具の準備や馬の手配まで担う、いわばトータルコーディネーターだった。子孫は現在も旅館を営み、変わらぬ「おもてなしの心」で人々を迎えている。

大申学・大おかみの米山芳子さん(右)とおかみの美紀さん。大申学はかつて富士講の登山者を受け入れていた
大申学・大おかみの米山芳子さん(右)とおかみの美紀さん。大申学はかつて富士講の登山者を受け入れていた
富士山須走口登山道の起点となる冨士浅間神社
富士山須走口登山道の起点となる冨士浅間神社
大申学の玄関。おもてなしの心は昔も今も変わらない
大申学の玄関。おもてなしの心は昔も今も変わらない
大申学には登山者の彫刻を施した飾り窓がある
大申学には登山者の彫刻を施した飾り窓がある
大申学・大おかみの米山芳子さん(右)とおかみの美紀さん。大申学はかつて富士講の登山者を受け入れていた
富士山須走口登山道の起点となる冨士浅間神社
大申学の玄関。おもてなしの心は昔も今も変わらない
大申学には登山者の彫刻を施した飾り窓がある

 

御師(おし)の心宿す旅館 登山者支えた「おもてなし」今も

 

 「ただいま」「お帰り」―。登山道の起点、冨士浅間神社近くの旅館「大申学(だいしんがく)」に常連客との掛け合いが響く。鎌倉時代から続き、須走の御師の草分けとされる。1960年ごろまで富士講の登山者を迎え、夏山シーズン中はひっきりなしに人が出入りした。
 「寝る暇がなく、仕事の合間に立って寝た」。大おかみの米山芳子さん(77)は幼少期に聞いた、祖父の昌夫さんの言葉が耳に残る。昌夫さんはどんなに忙しくても礼服を身に着け、玄関先で頭を下げて客を出迎えた。芳子さんは「仕事に心血を注ぎ、客を大切にしていた」と振り返る。御師には登山の安全を祈願する役割もあり、かつては神々をまつる部屋があった。
 最盛期には十数人の御師が宿屋を構えたが、現在も宿泊施設を営むのは数軒のみ。大申学も登山者の利用は少なく、自衛隊施設や観光施設を目的に訪れる常連客がほとんどだ。おかみの美紀さん(55)は常連客の名前を全て覚え、それぞれの好みに応じて部屋や寝具を用意する。「第二の家のようにくつろいでほしい」。その心意気は今も昔も変わらない。

 
 

迷彩柄、ジンギスカン… 自衛隊の街「ならでは」の商品も

 
幹部養成機関の富士学校が所在する陸上自衛隊富士駐屯地
 

 須走地区には陸上自衛隊富士駐屯地が立地する。歩兵、戦車、大砲部隊の幹部を養成する富士学校などが所在し、平均約3千人の隊員が駐在する。駐屯地外にも官舎があり、隊員と家族は地域活動や経済活動の担い手として欠かせない存在だ。
 1954年に駐屯地が開設されると「地区は一気に活気づいた」(住民)。表通りから路地裏まで飲食店や小売店が次々と開業し、小学校のあるクラスは児童数が2・5倍になった。好景気に沸いた時代には「食事を終えて駐屯地に戻る隊員の列が地区の中心部まで続いた」と伝わる。

 
迷彩柄の商品が並ぶミリタント(左) 杉山精肉店のジンギスカンは北海道出身の隊員や家族に人気だ(右)
 

 自衛隊の街ならではの商店や商品もある。迷彩柄の衣類や小物などをそろえる自衛隊グッズ専門店「ミリタント」は客の9割が自衛官。任務で必要な品を買い求めることもある。杉山精肉店のショーケースにはジンギスカンや馬刺しが並ぶ。店主の杉山大寿さん(62)は「北海道や九州出身の隊員と家族が古里と同じ味を求めて来店する」と話す。

路地裏にも飲食店が並ぶ

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞