報道管制下「惨状、後世に」 太平洋戦争末期の希少写真㊤【語り継ぐ 東南海地震④】

 ■掛川の郷土史家・関七郎さん 史料自費出版

昭和東南海地震の写真や体験談を収録した冊子を手にする関七郎さん=9日、掛川市中央
昭和東南海地震の写真や体験談を収録した冊子を手にする関七郎さん=9日、掛川市中央

 太平洋戦争末期の1944年12月に起きた昭和東南海地震では、国民の戦意喪失を防ごうとする政府の報道管制により、具体的な人的、物的被害は国民に伝えられなかった。新聞などは地震発生の事実を簡潔に報じたが、被災地の写真は掲載しなかった。戦時下でカメラやフィルムが貴重品だったこともあって当時の写真は少ないが、市街地の家々に甚大な被害を及ぼした災害の記録を残そうと懸命にシャッターを押した市民もいた。
 「歴史上、東海地震や東南海地震は繰り返されてきた。昭和東南海地震はその一つなのに、戦時下に起きたため社会的に認知されていない。しっかり記録し、多くの人に知ってもらう必要がある」
 掛川市の郷土史家関七郎さん(89)は2021年3月、同地震に関する中央気象台(現気象庁)や御前崎測候所の調査記録と関連史料をまとめた冊子「まぼろしの昭和19年東海大地震 東南海巨大地震の歴史と事実」を自費出版した。自身も掛川第一国民学校(現同市立第一小)5年生だった当時の同地震体験談を執筆、掲載した。
 冊子には父・林江茂[りんえも]さんが地震直後に掛川、袋井両市内で撮った写真5点を載せた。2階建ての1階部分がつぶれた建物や、柱が折れて屋根が地面に伏した寺の本堂などが生々しく写る。当時は建築基準法や耐震基準がなく、建物の耐震性は不十分だった。関さんは林江茂さんが他界した後の1977年、実家の蔵に30年以上眠っていたこれらの写真を発見した。 photo02 2階建ての1階部分がつぶれた木造建物=現在の掛川市掛川 photo02 地震の揺れで崩壊したブロック塀=現在の掛川市南西郷
 呉服屋を営んでいた林江茂さんは写真が趣味で、外国製二眼レフカメラを持っていた。地震4日前の12月3日に関さんの兄・惣次郎さんが出征することになり、その姿を収めようと貴重品だったフィルムを購入した。そのフィルムの余りで地震後の様子を撮影した。
 関さんの実家は倒壊こそしなかったが、壁や天井が激しく損壊し、窓ガラスが割れ、石灯籠は倒れた。掛川市中心部では建物の下敷きになって死亡した住民もいた。「自分は地震の時、学校で2階建て校舎の1階にいたが、建物の下敷きになりそうで怖かった」と振り返る関さん。惨状を記録した林江茂さんの写真を見つめ、「地震の実態を伝える史料として後世に役立ててもらえれば」と語った。

 ■軟弱な粘土層 「沖積平野」での被害顕著 
 昭和東南海地震では、過去2万年以内に河川が土砂を運んで平野部を形成した軟らかい「沖積層」が厚く堆積した地域で被害が顕著だったことが分かっている。軟弱な粘土層では地震の揺れが増幅されるためで、中東遠の太田川、菊川の中流・下流域は現行基準の震度7相当の揺れに見舞われ、住宅全壊率が高い傾向がみられた。
 御前崎や浜松の測候所の地震計は激しい揺れで転倒し、記録用の針も途中で振り切れ、正確に記録できなかった。天竜川が作り出した扇状地平野が広がる浜松市南部でも多数の軍需工場が倒壊した。
 政府の地震調査研究推進本部は「沖積平野は日本全土の13%に過ぎないが、主要都市が集中する。軟弱地盤対策は地震防災の基本的な課題」と指摘する。

 東南海地震体験 証言募集 静岡新聞社は昭和東南海地震を体験した方の証言を募集しています。中東遠地域のほか、被害が大きかった静岡市清水区の住宅倒壊や、浜松市での軍需工場被災、下田市での津波浸水などを体験した方は、ぜひ証言をお寄せください。改めて取材をさせてもらう場合もあります。
 お住まいの市町名、氏名またはペンネーム、年齢、連絡先を明記し、〒422-8670(住所不要) 静岡新聞社編集局「語り継ぐ東南海地震」係<ファクス054(284)9348>、<Eメールshakaibu@shizuokaonline.com>にお送りください。

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