Q&A 徳川家康って、どんな人? 功績は、人柄は 静岡市歴史博物館の学芸員さんに聞きました
大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)の放送を契機に、徳川家康への関心が改めて高まっています。功績は、人柄は、ゆかりの地は・・・。静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典さん(46)に聞きました。
鈴木美晴
Q 幼少時代はどのように過ごしたのですか?
鈴木将典さん
徳川家康は天文11年(1542年)、三河(現在の愛知県)の領主の家に生まれました。
少年時代は隣国の大名・今川氏のもとで育てられ、駿府(現在の静岡市)で過ごしました。 「人質」と表現されるケースもありますが、京都との交流が盛んだった駿府で、質の高い文化や教養を身につけたと考えられています。
少年時代は隣国の大名・今川氏のもとで育てられ、駿府(現在の静岡市)で過ごしました。 「人質」と表現されるケースもありますが、京都との交流が盛んだった駿府で、質の高い文化や教養を身につけたと考えられています。
鈴木美晴
Q どこに住んでいたのですか?
鈴木将典さん
住んでいた場所については、今川館の近く(現在の駿府城公園周辺)、祖母が暮らしたとされる華陽院の近く、静岡浅間神社の近く(いずれも現在の静岡市葵区)など諸説あります。
永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、三河で独立しました。
永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、三河で独立しました。
鈴木美晴
Q 青年期・壮年期はどのように過ごしたのですか?
鈴木将典さん
織田信長と同盟を組み、拠点を三河の岡崎城から浜松城に移しました。元亀3年(1572年)の「三方ケ原の戦い」で武田信玄に大敗しましたが、後に武田氏を滅ぼし、 三河・遠江・駿河と所領を拡大しました。
信長が自害に追い込まれた「本能寺の変」の後、当時滞在していたとされる堺(現在の大阪府)から「伊賀越え」により、明智軍や地侍からの襲撃の危険を切り抜けて帰還。 甲斐・信濃も領有するに至りました。
信長が自害に追い込まれた「本能寺の変」の後、当時滞在していたとされる堺(現在の大阪府)から「伊賀越え」により、明智軍や地侍からの襲撃の危険を切り抜けて帰還。 甲斐・信濃も領有するに至りました。
鈴木美晴
Q 豊臣秀吉との関係はどう変化しましたか?
鈴木将典さん
天正12年(1584年)、勢力を拡大する豊臣秀吉と「小牧長久手の戦い」で対決したものの、後に臣従しました。駿府城を築きましたが、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、 江戸に移されました。
豊臣政権では政治の要職につき、京都などで過ごす時間も長かったようです。秀吉の死後、慶長5年(1600年)に天下分け目の「関ケ原の戦い」で勝利して将軍の座を手に入れ、江戸幕府を開きました。
豊臣政権では政治の要職につき、京都などで過ごす時間も長かったようです。秀吉の死後、慶長5年(1600年)に天下分け目の「関ケ原の戦い」で勝利して将軍の座を手に入れ、江戸幕府を開きました。
鈴木美晴
Q 晩年はどのように過ごしたのですか?
鈴木将典さん
慶長10年(1605年)に将軍職を三男・秀忠に譲り、拡張した駿府城に移りましたが、「大御所」として政治・経済・軍事・外交の実権を握り続けました。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼし、徳川政権の基盤を構築。駿府では趣味を楽しみながら、造船や大砲といった西洋技術の導入、銅活字による出版事業、貨幣制度づくりなどにも取り組みました。朝鮮、スペイン、イギリスなどとの外交でも手腕を発揮しました。
亡くなったのは元和2年(1616年)。死因はタイの天ぷら(素揚げ説もあり)に当たったという説があります。死後も「東照大権現」として人々にあがめられました。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼし、徳川政権の基盤を構築。駿府では趣味を楽しみながら、造船や大砲といった西洋技術の導入、銅活字による出版事業、貨幣制度づくりなどにも取り組みました。朝鮮、スペイン、イギリスなどとの外交でも手腕を発揮しました。
亡くなったのは元和2年(1616年)。死因はタイの天ぷら(素揚げ説もあり)に当たったという説があります。死後も「東照大権現」として人々にあがめられました。
鈴木美晴
Q どんなことが好きだったのでしょうか?
鈴木将典さん
多趣味だったと考えられます。例えば、飼いならしたタカを野に放って行う狩り「鷹狩り」。駿府城で過ごした晩年の秋冬には、毎日のように楽しんでいたようです。
また読書家でもありました。源頼朝を尊敬し、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」や中国の古典を愛読していたとされています。側近が書いたとされる「駿府記」からは、戦国武将の伊達政宗と一緒に囲碁や将棋に興じていたことも伺えます。
また読書家でもありました。源頼朝を尊敬し、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」や中国の古典を愛読していたとされています。側近が書いたとされる「駿府記」からは、戦国武将の伊達政宗と一緒に囲碁や将棋に興じていたことも伺えます。
鈴木美晴
Q どんな人柄だったと考えられていますか?
鈴木将典さん
短気な一面もあったようです。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉が知られているように、家康はのんびりしたイメージを持たれがちですが、三方ケ原の戦いや関ケ原の戦いなど、生涯にわたって戦の前線に出ていました。家康が70代の頃の大坂の陣では、重さ20キロもの甲冑を着て出陣したとされています。
家臣の手紙などに「機嫌の良い時に話しかけると仕事が上手く回る」といった記述が残されていることから、気分屋だった可能性もあります。
家臣の手紙などに「機嫌の良い時に話しかけると仕事が上手く回る」といった記述が残されていることから、気分屋だった可能性もあります。
鈴木美晴
Q 静岡県内の主なゆかりの地を教えてください
鈴木将典さん
死後に埋葬された久能山東照宮(静岡市駿河区)、「着初めの腹巻」が残されている静岡浅間神社(静岡市葵区)、幼少期に雪斎から薫陶を受けたとされる「手習いの間」のある臨済寺(静岡市葵区)や清見寺(静岡市清水区)などがよく知られています。
いずれも当時の姿がそのまま残っているわけではありませんが、浜松城(浜松市中区)や駿府城(静岡市葵区)も整備され、家康の歴史を展示で紹介しています。
いずれも当時の姿がそのまま残っているわけではありませんが、浜松城(浜松市中区)や駿府城(静岡市葵区)も整備され、家康の歴史を展示で紹介しています。
答えてくれた人
静岡市歴史博物館の学芸員・鈴木将典(すずき・まさのり)さん。1976年、東京都生まれ。 戦国時代の今川氏や 武田氏、 徳川氏の研究が専門。
静岡市歴史博物館
2023年1月13日グランドオープン。徳川家康の生涯や魅力、若き家康を育てた今川氏の活躍、家康により整備された東海道と駿府城下町の様子などを紹介する。2月26日まで、企画展「徳川家康と駿府」として、家康ゆかりの品々を一堂に集めて紹介する。
混雑緩和のため、展示室の観覧はウェブ予約制。同博物館公式サイト「日時指定予約はこちら」のボタンから予約できる。
家康がよく分かる 正室・側室/人柄/戦い
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