3分で読める 徳川家康が切り抜けた10戦 桶狭間/姉川/三方原/長篠/関ケ原・・・

 大河ドラマ「どうする家康」(主演・松本潤さん)で、注目される徳川家康。天下人となるまでに多くの戦を経験しました。家康の生涯を学ぶ上で、押さえておきたい戦・政変をまとめました。


桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)
永禄3年(1560年)、尾張田楽狭間(愛知県)
織田信長が今川義元を奇襲し、敗死させた戦い。徳川家康は今川氏に対する永年の服属関係を断ち、独立して織田信長と同盟し、武田氏と対抗することになった。


三河一向一揆(みかわのいっこういっき)
永禄6年(1563年)、三河国西部(愛知県)
三河国西部で起きた一向一揆。徳川家康家臣の「不入」侵害行為に抗議する蜂起。家康にとって最初の軍事的危機で、一揆鎮圧で一国制圧の基盤を固めることができた。


姉川の戦(あねがわのたたかい)
元亀元年(1570年)、姉川河原(滋賀県)
織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。将軍足利義昭が諸大名と連絡して信長包囲網を策すなど、この頃は信長にとっては困難な時代だったが、姉川の大勝は浅井・朝倉両氏の戦闘力に少なからぬ打撃を与えた。


三方原の戦(三方ケ原の戦・みかたがはらのたたかい)
元亀3年(1572年)、遠江国浜松(浜松市)
武田信玄と徳川家康が三方原台地上で戦い、信玄の圧勝に終わった戦い。家臣たちが家康の身代わりとなって討死し、家康はそれら家臣の犠牲によって浜松城へ逃げ込むことができた。


長篠の戦(ながしののたたかい)
天正3年(1575年)、三河国設楽原(愛知県新城市)
織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を破った合戦。鉄砲が組織的に活用され、織田・徳川・武田の勢力関係が一変した。三方原の戦に敗走した家康は武田氏の前に著しい苦境に陥っていたが、この戦を契機に勢力を回復し、関東方面へ計略の手を伸ばすことが可能になった。


本能寺の変(ほんのうじのへん)
天正10年(1582年)、本能寺(京都府)
明智光秀が織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。
家康は当時、堺にいたが「伊賀越え」で帰国した。


小牧・長久手の戦(こまき・ながくてのたたかい)
天正12年(1584年)、尾張国小牧・長久手など(愛知県など)
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、織田信雄・徳川家康とが展開した戦い。実質的に機内(京都・大阪など)を支配する羽柴秀吉と、織田政権の継承を期待する織田信雄との対立が表面化し、劣勢な信雄は徳川家康に援助を求めた。信雄と秀吉が講和し、家康も撤兵した。家康の二男・結城秀康が秀吉の養子となった。この戦いによって豊臣政権下における徳川家康の地位が確立した。


小田原征伐(おだわらせいばつ)
天正18年(1590年)、小田原(神奈川県)
全国統一を進める豊臣秀吉の大軍が、関東の雄・北条氏の本城小田原を包囲攻略し、早雲以来5代の覇を誇った北条氏を滅亡させた戦い。徳川家康は、豊臣軍で先頭を切る「先鋒」を務めた。秀吉はこの後、北条氏の旧領(関東)を家康に与えた。


関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)
慶長5年(1600年)、美濃関ケ原(岐阜県)
豊臣秀吉の死後の豊臣政権での主導権について、徳川家康らの東軍と、石田三成らの西軍が争った戦闘。東軍が勝利した。関東から機内を結ぶ諸国には、家康の譜代の武将が配置され、江戸幕府の大名配置の原型が完成した。家康の実力は圧倒的なものとなったが、この時点ではまだ豊臣政権の五大老の立場だった。


大坂の陣(おおさかのじん)
冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=元和元年(1615年)、大坂
関ケ原の勝利により政治の主導権を獲得し、慶長8年(1603年)には征夷大将軍になった徳川家康は、豊臣秀吉の子・秀頼に臣従を迫ったが、豊臣氏は家康に対抗するようになった。
冬の陣では、秀頼らの身分保証の代わりに、大阪城の軍事的価値を奪って講和した。その後の夏の陣では、秀頼の助命懇願を受け入れず、秀頼と母の淀君の自殺により豊臣氏を滅亡させた。戦後には統制を強化し、幕府の基礎を固めた。

※吉川弘文館の「国史大辞典」を元に作成。

家康がよく分かる 正室・側室/人柄/戦い
▶特設サイト「静岡人必読 今さら聞けない 徳川家康」

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