浜松工場誘致の歴史ひもとく 日露戦争で財政悪化、一時凍結 浜松市中区の伊東さん調査

 浜松工場(現・JR浜松工場)の誘致に尽力した上京団が明治時代にいたことを知ってほしい―。浜松市中区板屋町の不動産業杉山観光開発社長の伊東政好さん(85)が、1909(明治42)年に鉄道院総裁らへ工場建設の陳情に向かった154人の「濱松町民総代上京委員」を調べている。

明治時代に浜松工場の誘致に力を入れた上京団の名簿を指さす伊東さん=浜松市中区
明治時代に浜松工場の誘致に力を入れた上京団の名簿を指さす伊東さん=浜松市中区

 浜松工場は鉄道国有化に伴う再編で計画され、浜松町(現・浜松市)の鶴見信平町長らが約105万平方メートルの用地買収や埋め立て工事に着手した。ところが、国は日露戦争に伴う財政悪化などの影響で08年に予算を削除。既に投資していた地元は上京委員を組織して陳情し、12年に鉄道院浜松工場として、約21万平方メートルの敷地に創設された。
 伊東さんは、どのような人が上京団のメンバーだったか調べたものの集合写真以外は見つからなかった。ところが、市内の古本屋で26年発行の「濱松市史」を復刻した資料を発見。その中に名簿を見つけた。名簿には地元経済界の重鎮や、後に第2代浜松市長を務めた小西四郎氏らの記載があった。ただ、一部を除けば氏名のみの表記で、全体把握はこれからだ。
 伊東さんは、D51形蒸気機関車の製造などを手がけた浜松工場はものづくりの街の発展に欠かせなかったとみる。「上京団がなかったら浜松工場はなかっただろう。地元の救世主となった154人を明らかにしたい」と調査を進めている。

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