水筒飲み干し、服脱ぎ捨て【届かぬ声 子どもの現場は今⑤/第1章 河本千奈ちゃん③あの日、最後まで生きようと】

2022年6月中旬、登園前の河本千奈ちゃん。9月5日の朝も水筒を携えてバスに乗った=牧之原市内(両親提供)
2022年6月中旬、登園前の河本千奈ちゃん。9月5日の朝も水筒を携えてバスに乗った=牧之原市内(両親提供)

 「河本さん、お電話です」
 2022年9月5日午後2時20分ごろ。河本千奈ちゃん=当時(3)=の父が勤務する工場で、呼び出しの放送が流れた。作業の手を止め、事務室に向かう。電話機に妻の携帯電話の番号が表示されていた。
 「千奈ちゃんが…千奈ちゃんがバスの中に取り残されて!」
 受話器の声は今までになく慌てていた。娘の身に何かが起きた―。すぐに作業服から着替え、工場の駐車場で車の中から川崎幼稚園に電話した。副園長(当時)が出た。
 「千奈ちゃんがバスの中に取り残され、救急車で運ばれました」
 「千奈はどういう状態なんですか? 生きてるんですか?」
 「いや、あの…」
 言葉を濁す副園長に思わず声を荒らげた。
 「どういう状態か言え!」
 「心肺停止です」
 耳を疑い、また怒鳴った。「ふざけんなよ」
 妻とは病院で合流した。「とにかく生きていることを祈ろう」と声をかけたが、互いに正気を保てなかった。廊下を歩き回り、手当たり次第に親戚に連絡していると、担当医が現れた。
 「先生、千奈に会わせてください」。すがるような思いで面会を求めた。
 「分かりました。準備をしますのでお待ちください。ただ…」。担当医の表情が曇った。「いつもの娘さんと様子は違う。驚かないでください」
 夫婦で緊急外来の処置室に入った。ベッドに横たわる娘に生気は感じられなかった。「千奈ちゃん!」。変わり果てた姿が信じられず、泣き叫んだ。
 他の医師が胸骨圧迫を施していた。モニターの心拍数は一定のリズムで跳ね上がっている。
 「これは生きてるということですか?」。父が尋ねると、担当医が静かに答えた。
 「心臓マッサージをしているので動いています。やめるとゼロになってしまいます」
 しばらくして、担当医が再び声を絞り出した。
 「これ以上やっても悪い結果の方にしかいきません。心臓マッサージをやめてもいいですか」
 その意思確認に「はい」と答えたかどうかは、覚えていない。
 心臓が止まった娘を抱き上げた。普段の倍ぐらいの重さに感じた。「高い高い」をして、空中に放り投げて喜ばせることもあった娘の体が、持ち上げるのに精いっぱいだった。「本当のことなんだ」と悟った。
 その日の朝、初めて自分でボタンを留めることができたブラウスはバスの車内に脱ぎ捨てられていた。麦茶を入れて持たせた470ミリリットルの水筒は空っぽになっていた。
 左手の人さし指には傷があった。ありったけの力で脱出を試みていたのかもしれない。
 頑張り屋の千奈ちゃんは最後の最後まで生きようとしていた。

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