時論(9月10日)「普通の人」が狂気に走る時 

 関東大震災から100年の9月1日、静岡市内のミニシアターで、その日封切られた「福田村事件」を見た。震災の5日後、千葉の福田村(現野田市)に立ち寄った香川からの薬の行商団が朝鮮人と疑われ、一行15人のうち幼児や妊婦を含む9人が村人に殺された史実に基づく劇映画だ。事件は長い間、歴史の闇に埋もれていた。
 震災直後、「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」など、流言飛語が広がった。当時、日本は朝鮮半島を植民地支配し、背景には抵抗運動に対する恐怖や民族差別があったとされる。村人は一行が聞き慣れない讃岐弁で話していたことから朝鮮人と決めつけ、悲劇を生んだ。
 虐殺に加担した自警団をはじめ村人一人一人は、ごく普通の善良な人たちだ。それが、時代や社会背景の中で疑心暗鬼となり、集団心理に流され、村や家族を守ろうと竹やりを手に狂気の蛮行に走った。自分は村人たちと違う人でいられたかと、問わずにいられなかった。
 森達也監督は、虐殺や戦争を「集団で生きることを選んだ人類の宿痾[しゅくあ]」と受け止める。今も続くロシアのウクライナ侵攻や、日本でも絶えないヘイトスピーチ。自らの集団を守る名目の“排他”について、ともすれば陥りかねない感情や行動であると、自覚的になる必要があるのではないか。
 映画の中で、村人たちは自分がどこに向かっているのか分からないまま、強迫観念に突き動かされて周囲に同調しているように見えた。そこに「私」はない。自分を集団に埋没させた時、人は思考が停止し、とても危険な状況になる。福田村の事件は、決して過去の話ではない。
 〈論説委員・川内十郎〉

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞