「テレビの父」高柳健次郎ってどんな人? 浜松出身、先見した研究で産業発展に貢献【しずおか学 偉人の教え編】

 「しずおか学」。今回は、静岡県内ゆかりの人物から今を生きる私たちが受け取る「偉人の教え」。取り上げるのは、電子式(ブラウン管)テレビジョンの実験を世界最初期に成功させた「テレビの父」、浜松市出身の電気工学の研究者・高柳健次郎。
高柳健次郎が電子式テレビの実験でブラウン管に映した「イ」の字の雲母板を手にする青木徹教授。高柳記念未来技術創造館では、高柳が発展に貢献したブラウン管テレビも多数展示している=4月上旬、浜松市中央区の同館 「東京の歌舞伎を浜松の母に見せたい」。高柳が浜松高等工業学校(現静岡大工学部)の助教授となりテレビ研究を始めたのは、1924(大正13)年。今からちょうど100年前のことだ。米国でのラジオ放送開始を知り、音声だけでなく映像も無線で送ることができるはずだと考えた。「10年先、20年先を見据えた研究を」。空想の実現へ、地道に努力を始めた。
 当時の世界で研究の主流だった「機械式テレビ」は大型の機械を用いるため、家庭への普及が難しいと判断。物理の実験などで使う特殊な真空管「ブラウン管」内で電子を蛍光体に当てて光らせる「電子式テレビ」を究めることにした。
 結果はなかなか出なかった。研究費は尽き、研究室も失った。それでも「失敗や不成功は天の教訓。行き詰まった時には、口笛を吹いて気を楽にして、研究への英気を養う」と、悲観しなかった。
 研究開始から2年。受像側に電子式の仕組みを取り入れ、ブラウン管上に画像を映した。テレビ史に残る実験が浜松で成功した瞬間だった。浮かんだイロハの「イ」の字は、人々の暮らしを変える日本のテレビ技術の始まりを象徴した。後に、送信側も含む全電子式テレビも完成させた。
 第2次世界大戦の勃発や連合国軍総司令部(GHQ)による研究禁止命令など、多くの困難を乗り越え、戦後のテレビ放送開始に貢献。量産化のリーダーも務め、輸出による日本経済の発展につなげた。
 「先見した研究にとどまらず、戦後復興と絡めてテレビを産業・文化に発展させた」。その歩みを紹介する「高柳記念未来技術創造館」(浜松市中央区の静岡大浜松キャンパス)で、来館者のガイドを務めることもある同大電子工学研究所の青木徹教授(55)は功績を表現する。
 高度経済成長期、家電の「三種の神器」の一つとなったブラウン管テレビは、2003年の地上デジタル放送開始を契機に徐々に姿を消した。だが、高柳の足跡は現代の暮らしの中に息づく。例えば、スマートフォンのカメラに使われているセンサー。光を電気に換えてためておく「積分方式」は高柳の特許の発展型といえるという。
 青木教授は「かつて最先端だった技術が当たり前になっていく中、先生のように技術の最初の核をつくる基礎研究の重みを改めて感じる」と語る。高柳が「イ」の字に込めた思いは、1世紀を経て今に生きる。
 (教育文化部・鈴木美晴)
高柳健次郎(静岡大高柳記念未来技術創造館提供)
 たかやなぎ・けんじろう 1899年、浜松市生まれ。浜松高等工業学校助教授、同教授を経て、NHK技術研究所のテレビジョン開発リーダーに。第2次世界大戦後、日本ビクターに入社。技術者の組織「テレビジョン同好会」も結成。文化勲章を受け、静岡大名誉博士となった。1990年死去。(写真は静岡大高柳記念未来技術創造館提供)

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞