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文学と静岡への愛貫く 三木卓さんの功績や人柄振り返る

 静岡県ゆかりの詩人で作家の三木卓さんが亡くなりました。代表作の詩集「わがキディ・ランド」をはじめ、芥川賞を受賞した小説「鶸(ひわ)」など優れた作品を世に送り出し、翻訳や随筆、評論などでも活躍。子どもから大人まで幅広い世代に親しまれています。三木さんの功績や人柄についてまとめ、1ページで紹介します。

1973年「鶸(ひわ)」で芥川賞 亡くなる直前まで執筆活動

 中国からの引き揚げ体験を描いた小説や詩、評論など幅広い分野で活躍した詩人で作家の三木卓(みき・たく、本名冨田三樹=とみた・みき)さんが11月18日午前8時5分、老衰のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。88歳。静岡市出身。葬儀は近親者で行った。後日お別れの会を開く予定。

三木卓さん
三木卓さん
 幼少期を旧満州(中国東北部)で過ごした。終戦後にアナキスト系の詩人で記者だった父が亡くなり、大陸を転々とした後に帰国。この過酷な体験が創作の重要なテーマとなった。
 東京都で生まれ、引き揚げ後は母親の郷里の静岡市で過ごし、静岡高から早稲田大へ。出版社に勤務しながら詩作し、1967年に「東京午前三時」でH氏賞、71年「わがキディ・ランド」で高見順賞を受けるなど詩人として頭角を現し、73年「鶸(ひわ)」で芥川賞を受賞して小説家としての地歩も固めた。
 「ぽたぽた」で野間児童文芸賞、「路地」で谷崎潤一郎賞、「裸足(はだし)と貝殻」で読売文学賞など受賞多数。評論も手がけ、評伝「北原白秋」で毎日芸術賞などを受けた。
 アーノルド・ローベル「ふたりはともだち」など児童文学の翻訳も多く手がけた。94年に心筋梗塞に見舞われ、手術と闘病生活をつづった「生還の記」を翌年出版。死別した妻で詩人の福井桂子さんとの日々を描いた私小説「K」で伊藤整文学賞も受けた。2007年日本芸術院会員。
 2008年から亡くなるまで、静岡新聞で随筆「鎌倉だより」を月1回連載した。
〈2023.12.3 あなたの静岡新聞〉

満州引き揚げ後、過ごした静岡に深い愛 校歌作詞も多数

 詩人、作家の三木卓さん(静岡高出)の死去が明らかになった12月1日、静岡県の関係者に悲しみが広がった。ゆかりの書店や文学関係者らは、三木さんの郷土愛や活字文化への思いをたたえた。

静岡市立清水桜が丘高の学校要覧には、三木さんが作詞した校歌が掲載されている
静岡市立清水桜が丘高の学校要覧には、三木さんが作詞した校歌が掲載されている
 かつて静岡市の中心市街地に店舗を構えていた吉見書店(本部・葵区)は、三木さんが学生時代に通い、自伝的小説「裸足(はだし)と貝殻」にもエピソードが登場する。近年は市内2店舗に小説や児童書、翻訳本などのコーナーを常設していた。駿河区の長田店には同日午後、追悼文を掲出した。著書へのサインや書店独自の印「御書印」に入れる直筆メッセージを依頼してきた吉見佳奈子専務(54)は「すぐに応えてくださった。『きみは本をさがしている 本はきみをさがしている』『本は 心の薪 異世界へ!』などのメッセージは温かく、いつも故郷への思いがあふれていた」としのんだ。
 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さん(静岡市葵区)は、ことあるごとに三木さんと電話で文学談議に花を咲かせたという。「(作品は)簡潔だがヤワではない文体。少年のような純なユーモアを持った慈愛の人だった。作品や後進の『命』を育てることを生涯貫いた」と振り返った。三木さんは10年ほど前から公立の文学館設立を待望していたとし「郷土の文学環境を常に気にしていた。(文学館設立が)恩に報いることになる」とまなじりを決した。

 三木さんは静岡新聞のコラムを通じて、県内の文化の後押しを続けた。女性9人の詩誌「穂」を発行する「穂の会」の井上尚美代表(82)=島田市=は「父のような温かみがあった」と形容した。2008年の創刊以後、三木さんは「穂」を何度も取り上げた。「穂」の40号記念号には原稿も寄せた。井上さんは「いつも優しく見守ってくれた。1週間前に自作詩集を送ったばかり。本当に残念」と悼んだ。
 三木さんは県内学校の校歌の作詞も多数手がけた。公立高校では現在も4校で歌い継がれている。13年度開校の静岡市立清水桜が丘高(清水区)は、学校関係者らでつくる開校準備委員会が同市ゆかりの候補作家から、実績が豊富な三木さんに依頼した。同校に残る資料には、静岡市で高校時代を過ごした"先輩"から生徒への寄稿が残る。同校によると、三木さんは高校生活を「その人の基本・原型をつくる人生における一番大切な場」と説明。母校への愛と誇り、郷土愛の大切さをつづった。
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追悼文が掲出された三木卓さんの小説や翻訳本などの紹介コーナー=1日午後5時ごろ、静岡市駿河区の吉見書店長田店

評伝 満州引き揚げ体験 根本に
 詩人、作家、児童文学者、翻訳者―。三木卓さんは文学、文芸を広範に捉え、簡潔な言葉で表現した。1967年に詩集「東京午前三時」でH氏賞、73年には小説「鶸(ひわ)」で芥川賞に選出。以後も続くあまたの受賞は、類いまれな観察力、「今を生きる」ことへの執着が結実したものだろう。
 その根本には、敗戦後に旧満州から引き揚げる際の無残な風景、何より親族とのつらい別離があったのではないか。苦難の中で磨き上げた平明な文体、無常観と生き続ける意思の併存が、作品全体を貫いていた。「鶸」を収録した連作短編集「砲撃のあとで」については近年、「歴史的な事件の中で愚かな人がうろうろしていた。今の若い人たちには分からないかもしれない」と述べていた。
 三木さんといえば、静岡新聞の読者には2008年から続く月1回の連載「鎌倉だより」が浮かぶだろう。本県に関係するありとあらゆる書物、人物を取り上げた。同人誌や郷土研究誌、自費出版の小説や詩集も。「僕はね。静岡の人の活動をできるだけ取り上げたいんだよ」が口癖だった。
 夏の全国高校野球選手権静岡大会の開幕を毎年楽しみにし、本県出身力士の活躍に目を細めた。「静岡から、小説を書く人がもっと出て来てもらいたいねえ」と憂えてもいた。自宅に届く静岡産のミカンがことさら楽しみだったようだ。定番のミカン評は「やっぱり露地物はおいしい。今年もいい味だな」。静岡を愛した作家がまた一人、逝った。

詩を核に人間世界へ 作家の藤沢周さんの話
 鎌倉文士の大先輩だった。にこやかで、分野を問わず、分け隔てなく後輩を大事にされていた。温厚な方だったが、目の底に怜悧(れいり)な光を宿しているとも感じていた。詩の世界から散文の世界に入っていった先輩でもある。詩を核にして、物語でどうしようもない人間世界に飛び込んでいく姿勢を学んだ。最近まで文章を発表されていたので、訃報に接して驚いた。とても残念だし、悲しい。
〈2023.12.3 あなたの静岡新聞〉
 (教育文化部・橋爪充)

童話「お月さまになりたい」半世紀経て新版 書店にコーナー、三木さんからのメッセージも

 静岡市出身の作家三木卓さんが半世紀前に創作した児童書「お月さまになりたい」が、オールカラーの新版として偕成社から刊行された。三木さんは「30代半ばにドキドキしながら書いた初期の童話。大変ありがたい」と喜ぶ。

新版としてよみがえった「お月さまになりたい」。三木卓さんの著書が並ぶコーナーに加わった=静岡市駿河区の吉見書店長田店
新版としてよみがえった「お月さまになりたい」。三木卓さんの著書が並ぶコーナーに加わった=静岡市駿河区の吉見書店長田店
 同書は1972年に三木さんが書き、「100万回生きたねこ」などを描いた絵本作家、佐野洋子さん=同市出身=が絵を担当。あかね書房から出版された。版を重ねてロングセラーとなっていたが、しばらく品切れになっていた。
 物語は、男の子が学校からの帰り、1匹の犬と出会うところから始まる。犬はおしゃべりができるし、恐竜や風見鶏、気球にも変身できる。ユーモラスな会話のやりとりから、意外なストーリーに展開していく。
 編集を担当した偕成社の広松健児さん(60)は小学4年のときに出合い、読後に思わず月を見上げたと記憶する。男の子と犬の友情、孤独、憧れを持つこと―。「抱えている思いがとてもリアルだった」。戦争や公害など、当時の社会問題にも触れた内容は「子どもたちに向け、ごまかすことなく書かれている。半世紀を経ても状況が変わっていない」と強調する。
 新版の絵は、絵本やイラストなどで活躍する及川賢治さんが、描き下ろした。見開きごとにポップな絵が登場し、三木さんは「コミカルな要素が加わった。月の上にお墓がある絵なんて面白い」と話す。
 「がまくんとかえるくん」シリーズ(アーノルド・ローベル作)の翻訳をはじめ、数々の童話や絵本で知られる三木さん。「幼年童話はメッセージがあって成立する。犬はお月さまにはなれないのに、頑張り続ける。失敗をしては頑張る。人生はそういうところがあるでしょ。時には、企てることも大切」と呼びかける。
 「お月さまになりたい」は1430円。
静岡の書店に三木さんコーナー
 三木さんの小説や翻訳本のコーナーを設けている吉見書店(静岡市)は、「お月さまになりたい」の購入者に、三木さんのメッセージ入りカードをプレゼントしている。
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三木さんのメッセージカード

 三木さんが「かわいいけれどちょっとなまいきってすてき」「この犬 いいなかま/うれしいなかま/空をとぶなんて/げんきだよ!」などとメッセージを寄せている。
〈2023.1.12 あなたの静岡新聞〉
 (教育文化部・岡本妙)

大自在(12月2日)三木卓さん

 静岡市出身の詩人で作家の三木卓さんが亡くなった。88歳。代表作の詩集「わがキディ・ランド」や芥川賞を受賞した小説「鶸[ひわ]」など優れた作品を世に送り出し、翻訳や随筆、評論などでも活躍した。

 本紙も寄稿やインタビューをたびたび掲載した。2008年から月1回連載している「鎌倉だより」は、亡くなる直前まで執筆していただいたことになる。感謝の念に堪えない。ご冥福を祈りたい。
 筆者が三木さんの作品を初めて読んだのは高校の教科書でだった。短編集「はるかな町」に収められた「介添人」。三木さんの高校時代の話だ。同級生に手紙で告白したものの、返事を聞くのが怖くてたまらない友人に頼まれて、呼び出した場所まで付き添う。到着するとそこには…。
 高校の教科書の内容などほとんど記憶に残っていないが、この作品はよく覚えている。舞台が地元で、描かれた場面をイメージしやすかったためだろう。時代は異なるが、登場人物と同じ高校生で共感する部分が多かったこともあるかもしれない。
 三木さんが文学に目覚めたのは、その高校時代だった。2年の時、文芸部誌に小説を載せた。03年の本紙の取材に対し「書くことが自分の態度表明だった。どう評価されるかは考えなかった」と振り返っている。
 小学生の娘が昨年、好んで読んでいた絵本に「がまくんとかえるくん」シリーズがある。米国の児童書で、三木さんが翻訳して教科書にも掲載された。活動の幅の広さに改めて驚かされる。亡くなった後も、その作品が読み継がれていくことは間違いない。
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