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戦国時代の研究に欠かせない貴重な遺跡 沼津・興国寺城の調査を深掘り!

 沼津市の国指定史跡・興国寺城跡。今年度行われた発掘調査で、石垣の築造時期が石の切り方や積み方の特徴から、戦国最末期から江戸最初期の1600年前後だと分かりました。戦国武将の北条早雲が初代城主となったことで知られるこの城は、1995年に国指定史跡となり、保存活用整備のための発掘調査が現在も続けられています。発掘の度に新たな発見がある興国寺城跡の調査のこれまでをまとめました。

沼津・興国寺城の石垣、1600年ごろ築造 高い技術「権力誇示」 発掘調査説明会

 沼津市文化財センターが2023年度に実施した国指定史跡・興国寺城跡(同市根古屋)の発掘調査で、石垣の築造時期が石の切り方や積み方の特徴から、戦国最末期から江戸最初期の1600年前後だと分かった。市はこのほど、現地で説明会を開いた。

約1・5メートルの深さまで残存していた石垣の基礎部分を紹介する説明会=沼津市根古屋の興国寺城跡
約1・5メートルの深さまで残存していた石垣の基礎部分を紹介する説明会=沼津市根古屋の興国寺城跡
 興国寺城の石垣はこれまで、大きさのふぞろいな自然石を積み上げる「野面積み」の特徴を持ちつつ、表面を平らに加工した石を使う戦国時代から江戸時代の過渡的な築造方法だと分かっていた。今回の調査で江戸初期に一般化する「矢穴」と呼ばれる石を切る際の跡がないことが分かり、時期がさらに絞り込めた。
 石垣の基礎部分は地表下1・5メートルに残存。黄色い粘土質の土や小さな石を敷き詰めて固める地盤対策を施していて、技術を持った職人が造り上げたとみられることも判明した。同センターの木村聡主任学芸員は「調査で外から見える部分の石だけを加工していたことも分かった。権力を誇示するため、見栄えを重視したのでは」と推測した。
 興国寺城は北条早雲旗揚げの城として知られ、武田氏や徳川氏、豊臣氏の家臣ら、支配勢力が次々と入れ替わった。市は城の保存活用整備に向けて継続的に発掘調査している。崩落する危険があることから、史跡の石垣の基礎を掘削する調査研究は少ないという。
(東部総局・菊地真生)
〈2024.03.17 あなたの静岡新聞〉

興国寺城ってどんな城だった? 戦国大名が何度も改修

 ※2004年1月25日 静岡新聞朝刊

本丸北側の大空堀=沼津市根古屋の興国寺城跡
本丸北側の大空堀=沼津市根古屋の興国寺城跡
 興国寺城(こうこくじじょう)は沼津市北西部、愛鷹山山ろくに伸びる丘陵の末端に立地する。北条早雲が今川家から富士郡十二郷に所領を与えられた際、興国寺という寺院を城郭化し居城としたのが創建とされている。早雲の時期には小規模であった城域はその後、慶長12年(1607年)に廃城となるまで、富士川以東地域の拠点的な城郭として今川、武田、後北条、徳川ら戦国大名が入城するとともに改修を繰り返し、今の城の形となったのである。
 興国寺城の構造は、丘陵端部を大空堀(おおからぼり)で切断し、北曲輪(くるわ)、本丸、二ノ丸、三ノ丸といった主要な曲輪をほぼ直線的に配置する特徴を持つ。本丸は三方を大規模な土塁に囲まれ、北側土塁上には南面に石垣をもつ伝天守台(でんてんしゅだい)があり、発掘調査の結果、性格不明の礎石(そせき)建物二棟が見つかっている。本丸北側にある北曲輪との間には深さ約20メートル、幅約25メートルの大空堀が尾根を分断するように掘り込まれており、そのスケールは圧巻である。本丸の南に接する二ノ丸との境には本来土塁と空堀があったと絵図は伝えるが、現在は後世の改変によって失われている。二ノ丸の南には三ノ丸があり、大手口があったとされるが、都市化が進み旧状を留めていない。
 本丸を中心とした遺構の残りもよく、また北条早雲旗揚げの城としての資料的価値から平成7年に国指定史跡に指定され、現在保存整備事業が進みつつある。その基礎資料を得るための発掘調査も継続して実施されている。
 三ノ丸を分断している県道にあるバス停から北に向かって進むと、二ノ丸から本丸にかけての景観が見えてくる。そのまま進み、本丸突き当たりの穂見神社脇から遊歩道を登り、伝天守台に立てば駿河湾までが一望できる。現在は付近の樹木も伐採されており、城の様子が大変分かりやすくなっている。
 ※内容は当時のまま

2003年度から本格的な発掘調査開始

早雲ゆかりの「興国寺城跡」 活用法探り来年度から発掘調査へ 沼津市教委 ※2003年2月13日 静岡新聞夕刊

 沼津市教委は平成12年度から3カ年をかけた事前調査(試掘溝)を経て、来年度から国指定史跡「興国寺城跡」の正規発掘調査に入る。興国寺城は戦国武将・北条早雲の旗揚げの城と伝えられ、観光要素も見込めるため、市は「史跡の発掘・整備には長期間を要するが、将来的には史跡公園として整備したい」と青写真を描いている。
 沼津市北部の愛鷹山の尾根を利用して築かれた興国寺城は南に浮島沼と呼ばれる湿地帯が広がり、人や馬の踏み入れが困難な場所に位置する。現在見られる遺構は新幹線の線路から南に、北曲輪、大空堀、天守台、本丸、二の丸、三の丸の順に配置されている。本年度の試掘では北曲輪内に埋もれている空堀と土塁などを確認し、本丸東側の空堀の存在も分かった。
 市は早くから興国寺城跡に着目し、昭和55年の基本構想策定委員会の発足以降、保存整備を進めてきた。早雲にゆかりのある小田原市、箱根町、韮山町などとともに平成13年に「早雲観光推進協議会」を組織し、連携して早雲を生かした地域づくりを進める動きもある。
               ◇
 【北条早雲と興国寺城】
 伊勢新九郎長氏と称していた早雲は駿河守護今川義忠の死後、今川家の家督争いを収めた功績で長享2年(1488年)に駿河国富士郡下方荘十二郷を与えられ、興国寺城の初代城主となった。早雲が延徳3年(149年)足利茶々丸を討って伊豆国の領主となり韮山城に移った後は目まぐるしく城主が替わり、慶長12年(1607年)天野三郎兵衛康景が部下の起こした殺害事件の責任を取って城を捨てたのを最後に廃城となった。

これまでの発掘調査、現地説明会の様子 写真で一気に振り返り

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正規の発掘調査が始まる前の興国寺城跡(2003年2月)
 
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確認調査で現れた空堀、土塁を熱心に見学する発掘調査現地説明会の参加者(2003年2月)
 
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城門の礎石などが発掘され、「虎口」に関心が集まった(2004年2月)
 
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本丸と二ノ丸を区切る堀の規模と堀に挟まれた土橋の規模が判明(2005年3月)
 
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居館があったとされる本丸北側から「玄関敷石」などを発掘(2006年3月)
 
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武田氏の時代のものと推察される「三日月堀」に注目集まる(2007年3月)
 
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北曲輪の空堀。全長85メートルのうち20メートルを発掘(2008年3月)
 
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北曲輪で幅11メートル、深さ7メートルの空堀に架かる土橋の遺構を発掘(2009年3月)
 
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船着き場の可能性がある遺構を発掘。土留めの石を置いた段差がみられる(2010年2月)
 
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江戸時代中期に作られた城の図面上は存在しない船着き場と思われる堀を「伝西船着場」として公開(2010年2月)
 
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排水溝跡で、水を通すため管状に積まれた石。供養塔の台座とみられる石は奧の方で見つかった(2011年3月)
 
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積み石に混じっていた供養塔の台座とみられる石(2011年3月)
 
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古地図に描かれていない「清水曲輪」で防御施設「堀切」の存在を確認(2012年12月)
 
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二の丸と三の丸をつなぐ土橋の遺構や外堀の痕跡を確認。出土した土橋の石積みの列/沼津市提供(2016年12月)
 
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城跡最北部の北曲輪部分で堀の構造を発見。北曲輪の発掘現場/沼津市文化財センター提供(2018年3月)
 
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本丸跡の中央部から石垣や石造りの階段などの遺構が出土。これまでの認識を覆す可能性が注目される(2019年11月)
 
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地中から見つかった約400年前の石垣/沼津市文化財センター提供(2021年3月)

※写真はいずれも静岡新聞掲載
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