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家康が名付け親!? 駿河三大名物の一つ、 古庄発祥の『うさぎ餅』の歴史を調査。

かつて、この古庄交差点付近でうさぎ餅が売られていた

江戸時代、『安倍川餅』『追分羊かん』とともに駿河三大名物といわれた『うさぎ餅』。古庄はその発祥の地だ。薄皮でしっとりやわらかい餅は、「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいからあがれ名物」と、江戸後期の狂歌師でもある蜀山人(しょくさんじん)の歌にも詠われている。この歌は、狂歌が流行っていた江戸の旅人の間で広まり、多くの人が餅を食べに訪れたそうだ。

うさぎ餅は、古庄で両替商を営んでいた前島家が、徳川家に振る舞った餅が起源だといわれている。前島家は駿府城代から俸禄を賜るほどの家柄で、古庄一帯に広大な屋敷を持っていた。その屋敷の庭が見事だったことや、貨幣を扱っていたこともあってか、徳川家がたびたび立ち寄っていたそうだ。そのとき振る舞った餅がおいしかったため、東海道を行き交う旅人の疲れを癒やすように、ここで売ることを命じられた。

松木屋で作られているうさぎ餅

当時、屋敷の横でウサギが飼われており、それにちなんで『うさぎ餅』と名付けられ、徳川家よりウサギの焼き判をもらったことが始まりだという。創業の年は不明だが、江戸時代初期から続いており、立ち寄ったのが徳川家康ではないかという説もある。

その後、初代から8代までの約250年以上前島家によって製造販売され、家柄もあってか勝海舟、渋沢栄一など多くの著名人も訪れたそうだ。明治に入り、自由民権運動が活発になると、新政府の経済政策や圧力により両替商の商売が厳しくなってくる。1885年、若い時から手伝いに来ていた隣の吉田家に器具一式とともに引き継ぐことになり、前島家による餅作りは終わりを告げる。

その後も、吉田家により餅は作り続けられ、変わらず店は繁盛したそうだ。太平洋戦争で商売を一時中断するも、戦後に再開し3代にわたり古庄の地で作られた。1965年に、後継者がいなくなったことから廃業。

地元の名菓は途絶えるが、県立農業高校の静農祭で伝統のうさぎ餅作りを行ったり、地元の人たちが協力してモニュメントを設置したりするなど、愛されてきた名物を後世に伝えようとする動きが起こった。また、七間町の扇子屋にも餅作りが伝えられるも平成の初めに閉店。

吉田家が最後に使っていた焼き印。現在は、松木屋で保管されている

1994年に開催された東海道の宿場町をテーマとした物産展をきっかけに、静岡伊勢丹が『古庄うさぎ餅』として商標登録。製造を西脇にある老舗の『松木屋』に依頼し、吉田家の協力を得ながら試行錯誤の末に復活させた。

現在は、静岡伊勢丹と松木屋で販売している。時代に合わせて製法や形を変えながらも、しっとりやわらかい薄皮の餅と上品な甘さの餡、トレードマークの満月の焼き印は、しっかりと現代に受け継がれている。

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