【評伝】笠谷幸生さん 「遊び」探究 極意つかむ ジャンプ金 口べたな“飛行隊長”
1972年に札幌市で開かれたアジア初の冬季五輪は「日の丸飛行隊」のスキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)表彰台独占が大会の記憶として刻み込まれた。“隊長”として日本初の冬季五輪金メダリストになった笠谷幸生さんが23日、80歳で死去した。肺を長く患い、力尽きた。=関連記事22面へ
口べたを自認し、積極的に人と交わる性格ではなかったが、愛した競技については、とつとつと楽しそうに話した。幼い頃に魅了されたジャンプを「完全な遊び」と位置づけ、選手になっても探究に飽くことなく、20代後半に極意をつかんだ。
それが空中で「空気に挟まる」意識だった。できるだけ空気抵抗を受けないような感覚で飛べるよう、踏み切ることに集中した。これが70年世界選手権70メートル級2位や71年の国内11戦9勝につながった。
札幌五輪は頂点を喜ぶより、90メートル級(現ラージヒル)の敗戦を悔やんだ。大倉山ジャンプ競技場を「やっつける」と意気込んで「遊び」を極めるはずだったが、勝てる位置につけながら2回目に失敗し「大倉山に負けた」と残念がった。
欧米で主流ではないジャンプが日本で「お家芸」と認識され、重要種目として強化対象であり続けたのは表彰台独占の功績。指導者としての実績は少ないがさまざまな立場から比類ないカリスマ性でジャンプ界を支えた。
大きく結実したのは98年長野五輪で、日本勢は金2銀1銅1のメダルに輝いた。エースだった船木和喜は「笠谷さんという大きな存在があったから僕たちがいる」と感謝した。
来し方を自慢するような人ではなかった。でも「笠谷さんなしで日本のジャンプ陣の活躍は続かなかったのでは」と問うと「そういうことになるのか、かかっ」と照れながら笑った。昨年末のことだった。