時論(5月23日)無理に漢字を当てなくても

 小説家の坪内逍遥は、にわか雨に「太田道灌」の字を当てた。道灌は室町時代後期の武将。江戸城を築いた。人名と気象が当て字でつながるのは、道灌がタカ狩りの帰途、にわか雨に遭った逸話が広く知られていたからだろう。
 民家に駆け込んで蓑[みの]を借りようとした道灌に娘が差し出した山吹の小枝。〈七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき〉。「実の一つ」「蓑一つ」。古歌を踏まえた娘の意を道灌は理解できなかった。後に無学を恥じて歌道を志したとされる。
 戸籍の氏名に読み仮名を付けるための法改正へ、法制審議会の部会が中間試案をまとめた。戸籍に使える漢字は限られているが、読みの規定はない。例えば光宙を「ぴかちゅう」と読むのは認められる方向のようだ。
 「みつひろ(光宙)」君を、親しみを込めて人気キャラクター名で呼ぶのとは訳が違う。生涯付き合う戸籍である。多角的に議論を進める必要がある。
 名は体を表すと言う。この「名実一体観」と、名前は識別のための符号に過ぎないという「名前符号観」を並べ、言語学者の中村桃子さんは「名前に対する感覚は、この二つの考え方の間を行き来している」と説く(「『自分らしさ』と日本語」筑摩書房)。
 法制審試案は、いわゆる「キラキラネーム」に寛容のようだ。親の気持ちは尊重すべきだが、初見で読めないような名前は、読み違えられた子どもが傷つきはしないかと心配になる。
 音を優先するなら無理に漢字を当てなくても、平仮名や片仮名でいいのでは。長じて本人が漢字にしたくなったら、その時に選んで通称にすればいい。当て字も含め、文字と読みが多彩な日本語。煩わしさは、豊かさでもある。

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