伊豆市資料館「埋甕」 縄文時代中-後期【美と快と-収蔵品物語㉛】

 旧中伊豆町の町立施設として1987年に建てられた伊豆市資料館。館内に掲示された市内の主な遺跡の地図には誰もが目を見張る。その数、116カ所。うち縄文時代が約80カ所を占める。狩野川支流の大見川流域、天城連峰の懐に抱かれた肥沃[ひよく]な地は、はるか昔から人の営みとともにあった。同館が収蔵する国指定史跡「上白岩遺跡」の「埋甕[うめがめ]」などの出土品は、3000~4000年前にこの地に生きた人々の確かな証しである。

「埋甕」 口径約41センチ×高さ約43センチ
「埋甕」 口径約41センチ×高さ約43センチ
「人面把手」 幅約7.5センチ×高さ約8センチ
「人面把手」 幅約7.5センチ×高さ約8センチ
伊豆市資料館
伊豆市資料館
「埋甕」 口径約41センチ×高さ約43センチ
「人面把手」 幅約7.5センチ×高さ約8センチ
伊豆市資料館


 ■集落営み 今に伝える
 上白岩遺跡は1976年の予備調査を踏まえ、77年に本格的な発掘調査が開始された。調査は2004年までに計12回行われている。旧中伊豆町立中伊豆歴史民俗資料館は、貴重な出土品を収めることを目的の一つとして設立された。
 約3万平方メートルに及ぶと考えられている同遺跡からは、竪穴式の住居跡、墓地と考えられる土壙[どこう]に加えて、大小の石を一定の形に並べた配石遺構が発見された。
 特に注目を集めたのが、円形に大小の石を並べた直径12・4メートルの環状列石だった。しっかり形を残した環状列石が東海地方で見つかるのは初めてだったという。伊豆市社会教育課の松本由奈学芸員は「何らかの宗教施設だったと考えられる」と解説する。
 こうした遺構からは、広口の花瓶のような形をした口径約40センチの「埋甕」も複数出土した。同館ではその一つを展示する。
 出土時には底が抜けた状態で、内部には河原の石が積み上げられていた。「他の埋甕には少量の骨粉も入っていた。埋葬用品としての機能があったのではないか」と松本学芸員。上部にくびれを作ったり、側面に4本線の渦巻き状の文様を施したりと、装飾性の高さも見て取れる。
 同遺跡については、縄文中期の集落が次第に墓域に変化していったとする説もある。松本学芸員は「川の氾濫など災害もあった中で人が住み続けた。温暖な気候と、山川の恵みを享受できたことが大きかったのでは」と過去に思いをはせた。

 ■愛嬌ある印象的な形 「人面把手」縄文時代後期
 「埋甕」と同じ上白岩遺跡から出土した土器の破片は、人の顔をかたどったものとされている。松本学芸員は「焼成も良好で、わざわざ研磨して形を整えている」と話す。
 考古学用語では「顔面把手[とって]」とも言われる形状で、土器の口縁部に一つだけ作り付けられるものが多いという。「最新日本考古学用語辞典」(大塚初重・戸沢充則編)には「把手としての機能は想定しがたく、突起と呼ぶべきである」とある。
 見開いた“目”、今にも言葉を発しそうな“口”。愛嬌[あいきょう]があるが、どこかもの悲しそうにも見える。松本学芸員は「装飾性に富んだ縄文時代の土器らしく、形そのものにインパクトがある」と評価する。

 伊豆市資料館 伊豆市上白岩425の1。近接する上白岩遺跡の出土品をはじめ、伊豆の暮らしと文化を知るための資料を自然、遺跡、芸術、産業の4ゾーンに分けて展示している。現在の館名は2015年4月から。修善寺郷土資料館の閉館に伴って資料を移したことが契機だった。旧中伊豆町、旧修善寺町のほか、現在の伊豆市を構成する旧土肥町、旧天城湯ケ島町の民具や考古資料も収蔵する。掲載した2点は常設展示されている。

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