歌人の吉井勇 静岡・梅ケ島に最古歌碑か 静岡県立大教授が調査開始

 全国各地に残された歌人吉井勇(1886~1960年)の歌碑の中で、静岡市葵区梅ケ島に残されたものが最も古い可能性があるとして、県立大国際関係学部の細川光洋教授(日本近代文学)が調査に着手した。吉井は「命短し、恋せよ、少女(おとめ)」で始まる「ゴンドラの唄」で有名だが、不遇時代を支えた静岡の支援者との絆はあまり知られていない。

歌碑の前に立つ細川光洋教授(左)と手塚泰宣支配人=7月上旬、静岡市葵区の梅ケ島温泉ホテル梅薫楼
歌碑の前に立つ細川光洋教授(左)と手塚泰宣支配人=7月上旬、静岡市葵区の梅ケ島温泉ホテル梅薫楼
梅ケ島滞在時の写真。後列中央が吉井勇、その左が手塚忠告さん(同ホテル提供)
梅ケ島滞在時の写真。後列中央が吉井勇、その左が手塚忠告さん(同ホテル提供)
歌碑の前に立つ細川光洋教授(左)と手塚泰宣支配人=7月上旬、静岡市葵区の梅ケ島温泉ホテル梅薫楼
梅ケ島滞在時の写真。後列中央が吉井勇、その左が手塚忠告さん(同ホテル提供)


 歌碑は梅ケ島地区で最も歴史が長いホテル「梅薫楼」の脇にある。高さ1メートルほどの石に吉井の細い字体で「あめつちの 大き心に したしむと 駿河の山の 湯どころに来し」とあり「昭和14年」(1939年)と刻まれている。
 細川教授によると、吉井の歌碑は西日本を中心に全国に多数あるため、確認を進めている。「作者の生存中に歌碑を建てた場合は書簡や随筆などの記録に残ることが多いが、今のところ梅ケ島より前の記録は見当たらない」とし、「調査が済んだら論文として残したい」と意欲を見せる。
 吉井は33年、妻の関係したスキャンダルをきっかけに全国を流離し、36年に静岡市を訪ねた。梅薫楼を建てた豪商の手塚忠告さんや郷土史家の法月俊郎さん(いずれも故人)らでつくる「可美古会」が招き、翌春まで駿河区中田に住まわせるなどして支えた。
 その後吉井は新しい妻を得て京都へ移り住み、39年5月に静岡市に招かれ、梅ケ島を訪問した。当時の写真は多く残っており、梅薫楼支配人で忠告さんの孫泰宣さん(63)は「トンネルが開通し、梅ケ島に車で往来できるようになった頃。祖父は温泉をPRする狙いがあったのかも」と推測する。2泊3日と短い滞在だったが、吉井は仲間たちと湯や酒を楽しみ、40首余りの歌を詠んだ。
 忠告さんは寄付を原資に歌碑を建て、協力者への返礼に歌集冊子「梅ケ島遊草」を制作した。歌碑よりも先に冊子が完成し、写真貼付用に空白のページを設けて送ったという。収録作品について細川教授は「良い歌が特に多く、友に対する吉井の感謝の思いを感じる」と評価する。
 (社会部・大須賀伸江)

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