富岳真図(部分) 寛政12(1800)年 静岡県富士山世界遺産センター【美と快と-収蔵品物語㊷】

 江戸時代後期、民衆の間で富士講による富士登山が流行した一方で、武家たちも頂を目指した。登山の様子は絵や文章に克明に記され、富士山について江戸から遠望した姿や絵でしか知らなかった将軍の興味を引きつけた。富士宮市の県富士山世界遺産センターが収蔵する2点の絵巻物は、11代将軍徳川家斉[いえなり]が上覧し、日本一の山への憧憬[しょうけい]を強くしたとされる。

「富岳真図」(部分) 寛政12(1800)年 大場維景原筆、小野正応写 縦27・2×全長868・0センチ
「富岳真図」(部分) 寛政12(1800)年 大場維景原筆、小野正応写 縦27・2×全長868・0センチ
「富士山中真景全図」より「絶頂剱峯眺望」 寛政7(1795)年、谷文晁筆 縦22・0×全長1177・0センチ
「富士山中真景全図」より「絶頂剱峯眺望」 寛政7(1795)年、谷文晁筆 縦22・0×全長1177・0センチ
県富士山世界遺産センター
県富士山世界遺産センター
「富岳真図」(部分) 寛政12(1800)年 大場維景原筆、小野正応写 縦27・2×全長868・0センチ
「富士山中真景全図」より「絶頂剱峯眺望」 寛政7(1795)年、谷文晁筆 縦22・0×全長1177・0センチ
県富士山世界遺産センター

 

登山記録 募る憧憬

 2021年にコレクションに加わった「富岳真図」は、水戸藩士大場維景による登山図の写本。富士登山に浅からぬ思いがあった維景は寛政6(1794)年6月、主君の許しを得て甲州街道経由で吉田口(山梨県富士吉田市)へ向かった。山頂で御来光を拝んだ後、下山し、人穴や白糸の滝、浅間大社(いずれも富士宮市)、三保松原(静岡市清水区)を巡った様子を記録した。
 特に山頂から眺めた日の出は、時系列で図解。太陽が現れる前は「光リナク銅色ノ如シ」、海面を太陽が離れる時には「光ヲ生シ車輪[シャリン]ノ如ク左右へ旋転[センテン]シテ止[ヤマ]マサルコト久シ」「象[カタ]チ鶏卵[ケイラン]ノ如ク」、日が昇ると「此時絶頂へ始テ日影当ル」と記した。センターの松島仁教授(54)は「富士山を自分の目で確かめ、その自然現象を実証的に観察し報告している。富士講による登山との違いだ。家斉はその記述をたどりながら、登山を追体験できたのでは」と推察する。
 センター初の収蔵品である谷文晁の「富士山中真景全図」の他にも、家斉が上覧した富士山図があるとの記録を基に探していたところ、旧所蔵者から連絡を受けて収蔵に至った。センターの「富岳真図」は和歌や俳諧に造詣が深かった信州松代藩主真田幸弘が側近の画家に写させ、跋[ばつ]文を加えたもの。複数の写本がある中で、「来歴が確かで、最良のもの」(松島教授)と位置づけられる。原本は焼失したとみられている。

 

家斉がたたえた「妙技」 「富士山中真景全図」より「絶頂剱峯眺望」 寛政7(1795)年、谷文晁筆

 徳川家斉は「富岳真図」に加えて、寛政7(1795)年には谷文晁の「富士山中真景全図」を上覧した。作品冒頭には、家斉自身によって「妙技」との評が書かれている。
 文晁は富士登山の様子を34枚の絵で表した。富士川を出発し、須山口(裾野市)から山頂へ。帰路に顧みた富士山も記した。途中、子どもたちから物乞いを受ける自身を描いているが、登山自体が実体験ではなく、絵師小泉檀山が同年7月に登頂した際のスケッチ「富岳真状」を下敷きにしているとされる。
 文晁は「写山楼」と号し、生涯にわたって富士山のさまざまな姿を描いた。

 

 静岡県富士山世界遺産センター 富士宮市宮町5の12。建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した建築家坂茂氏の設計で、富士ヒノキを格子状に組み上げた逆さ富士の外構が特徴。北棟、西棟、展示棟からなり、展示棟では1階から5階まで登山の疑似体験をしながら展示を鑑賞できる。「富岳真図」と「富士山中真景全図」は、現在開催中の特別展「士(サムライ)たちの富士山」の第2部「頂へのあこがれ」(11月3~27日)で見ることができる。

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