元亀三年十二月味方ケ原戦争之図 明治時代 浜松市博物館【美と快と-収蔵品物語㊺】

 後に征夷大将軍となる徳川家康が29歳から45歳まで本拠地とした浜松。家康が甲斐から侵攻した武田信玄に敗れた元亀3(1572)年12月22日の三方ケ原の戦いは、この地域が舞台になった。浜松市博物館は地元で試練の時期を過ごした家康にまつわる資料を収蔵している。

「元亀三年十二月味方ケ原戦争之図」 明治時代 37センチ×73・2センチ
「元亀三年十二月味方ケ原戦争之図」 明治時代 37センチ×73・2センチ
「遠州味方カ原御合戦之図」 江戸時代 53センチ×76センチ
「遠州味方カ原御合戦之図」 江戸時代 53センチ×76センチ
浜松市博物館
浜松市博物館
「元亀三年十二月味方ケ原戦争之図」 明治時代 37センチ×73・2センチ
「遠州味方カ原御合戦之図」 江戸時代 53センチ×76センチ
浜松市博物館


伝承された合戦 錦絵に
 武者の雄たけびが聞こえてきそうな錦絵「元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図」。よろいかぶとに身を包んだ男たちが躍動する姿が、合戦の激しさを示している。
 図の右側に武田軍、左側に徳川軍の武将らを配した構図。軍配で指揮する武田信玄の前で、やりを振りかざして馬で突進するのは山県昌景。対する徳川家康は馬上で太刀を構えて応じる。重臣の本多忠勝も敵方をやりで突く―。戦場の迫力に満ちたシーンだ。
 実際の三方ケ原の戦いで、信玄と家康が至近距離で相まみえる場面はなかった。この錦絵は300年も時代が下った明治時代の作。東京・神田須田町の版元の名が図の右下にある。浜松市博物館の鈴木奈々学芸員は「三方ケ原の戦いが庶民に人気だった歌舞伎や軍記物の題材になり、さらに錦絵としても親しまれた」と推測する。
 合戦は徳川方の大敗に終わり、家康らは浜松城まで逃げ帰った。家康の重臣、酒井忠次が城のやぐらで太鼓を打ち鳴らし、追ってきた武田軍を引き返させた「酒井の太鼓」の話も歌舞伎の演目となり、明治期の別の錦絵や組み上げ灯籠に描かれた。
 これらは、同館が家康に関する資料を幅広く収集する中で収蔵に至った。三方ケ原の戦いは家康のその後の生涯に大きな影響を及ぼしたとされるが、地元の浜松には1次史料が乏しい。一方、市民の間ではこの戦いや家康にまつわる数々の伝承が今も残る。
 鈴木学芸員は錦絵などについて「後の時代に伝承がどのように形作られてきたか、資料からイメージすることができる」と話す。

両軍の布陣にも関心 「遠州味方ヵ原御合戦之図」 江戸時代
 「遠州味方ヵ原御合戦之図」は三方ケ原の戦いの布陣図で、江戸時代の作。徳川軍と織田信長からの援軍が南西側に、武田軍が北から北東側にかけて陣を敷き、両者が対峙[たいじ]する。徳川軍の中央の「東照宮」は徳川家康を指す。書かれた地名や地形は必ずしも実際の通りではないという。
 浜松市博物館はほかにも布陣図を所蔵。いずれも後の時代に、戦いに対する軍事的な関心から制作されたとみる。鈴木学芸員は「戦いの直後に作られたのではない。江戸時代の人が三方ケ原の戦いをどのような形で捉えていたかを知る手掛かりとして見るべき」と話す。

 浜松市博物館 浜松市中区蜆塚4の22の1。縄文時代後期の貝塚がある蜆塚遺跡の隣接地に1979年開館した歴史系博物館。常設展示は縄文時代から近現代までの地域史について所蔵資料を中心に紹介している。浜松とゆかりが深い徳川家康に関する資料も収蔵。三方ケ原の戦いから450年に合わせた「三方ケ原の戦いと家康伝承」を12月4日まで開催している。

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