「田下駄」弥生時代後期  静岡市立登呂博物館【美と快と-収蔵品物語㊼】

 1943年に発見された静岡市駿河区の登呂遺跡は、弥生時代後期の集落跡。47~50年の第2~5次発掘調査に加え、99~2003年には再発掘調査を実施し、大量の土器や木製品が出土した。市立登呂博物館が収蔵する出土品からは、今から約2000年前にこの地で生きた人々の生活が垣間見える。戦後間もない頃に日本中の注目を集めた発掘調査の様子を伝える資料も豊富だ。

「田下駄」 弥生時代後期 長さ50.2×幅20.2×厚さ1.5センチ
「田下駄」 弥生時代後期 長さ50.2×幅20.2×厚さ1.5センチ
田下駄を履く人の想像図(静岡市立登呂博物館提供)
田下駄を履く人の想像図(静岡市立登呂博物館提供)
第2次発掘調査くわ入れ式の写真(1947年7月20日)
第2次発掘調査くわ入れ式の写真(1947年7月20日)
静岡市立登呂博物館
静岡市立登呂博物館
「田下駄」 弥生時代後期 長さ50.2×幅20.2×厚さ1.5センチ
田下駄を履く人の想像図(静岡市立登呂博物館提供)
第2次発掘調査くわ入れ式の写真(1947年7月20日)
静岡市立登呂博物館


 水田跡で出土 用途不明
 河川からの豊富な水に恵まれた静岡平野。今から約2千年前の弥生時代後期、この地で行われていた米作りの様子は、戦後すぐの登呂遺跡の発掘調査で出土した木製品などから明らかになってきた。木製の田下駄[たげた]は調査区域の水田跡から計13点が出土した。
 保存状態の良かった1点は平らな板状の「横型板状田下駄」で、材質は杉と推定。中央部分の4カ所にひもを通したとみられる穴が開いている。穴の間隔は前後で異なり、かかと側の方が狭い足の形状に合わせた構造だ。
 同博物館の渡辺智大学芸員は「板の四隅が丸く加工され、丁寧に仕上げてあるのが分かる」と解説する。両足に履いたようだが、対になる物は見つかっていない。
 ほかに、中央部分が高い台になった「横型有台式田下駄」も多く出土。一方、縦に長い田下駄は少数で、横長が一般的だったとみられている。
 ただ、これらのはっきりした用途は確認されていない。渡辺学芸員は「近世の大足などの農具と比較して考えると、田の中を歩いたり田起こしをしたりする時に使ったのではないか」と推測する。
 同博物館は静岡大と連携し、遺跡で出土した農具を復元する研究にも取り組んだ。復元した田下駄を実際に履くと、水田では歩きにくかったという。渡辺学芸員は「実験考古学の立場から検証することで、今後、用途をより絞っていきたい」と話す。
 戦後の明るさ伝える  第2次発掘調査くわ入れ式の写真(1947年7月20日)
 登呂遺跡の発掘調査が本格的に始まったのは敗戦の約2年後。大学の研究者や学生をはじめ、地元学校の生徒らが、調査のくわ入れ式の写真に写る。新しい時代に、科学的に歴史を知るための作業に携わる人々。その表情は一様に明るい。
 渡辺学芸員は「戦前は専門家の仕事だった遺跡の発掘調査が、開放的な形になった。さまざまな学問の研究者による複合的な調査もそれまでなかったことだった」と話す。
 同博物館によると、戦前の調査では出土品が大学などに移されることが多かったが、登呂遺跡の場合は地元に残され、現在の収蔵品となっている。

 静岡市立登呂博物館
 静岡市駿河区登呂5の10の5。1972年開館、2010年リニューアル。弥生時代の水田跡が日本で初めて確認された登呂遺跡にある。発掘調査での出土品など約400点のほか、「日本考古学の出発点」としての同遺跡の価値を伝える資料も常設展示する。前身は1955年開館の静岡考古館。遺跡そばで出土品などを収蔵・展示する施設は当時は珍しかったという。来年1月29日まで「コメ作りの考古学と民俗学」を開催中。

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