静岡・長沼空襲は「気象偵察」 攻撃めぐる米軍資料発見 県内20回超、気流の調査か

 太平洋戦争中、静岡市内で初の空襲となった長沼空襲に関する米軍の任務報告書が、全国組織「空襲・戦災を記録する会」(山口県)と静岡平和資料館をつくる会(静岡市葵区)の合同調査で見つかった。75年以上分からなかった米軍の飛来目的が「気象偵察を兼ねた攻撃任務」だったことなどが記されていた。

長沼空襲の詳細が明らかになった、米軍の任務報告書(米国立公文書館所蔵、空襲・戦災を記録する会の工藤洋三事務局長提供)
長沼空襲の詳細が明らかになった、米軍の任務報告書(米国立公文書館所蔵、空襲・戦災を記録する会の工藤洋三事務局長提供)

 報告書などによると、1944年12月7日正午ごろ、B29が「Weather Strike Mission(WSM)」として単機でサイパンから出撃した。東京を目指したが、雲に覆われていたため目標を静岡市に変更し、午後6時10分ごろ、M18集束焼夷(しょうい)弾14個を投下。4カ所で大きな火災を確認し、8日未明に帰着した。コメント欄には「静岡市は灯火管制を行っていなかった」とある。
 「記録する会」の新妻博子代表は「米軍は当時、日本上空の気流の特性把握に腐心していた」と解説する。WSMは、米軍が爆撃の精度を高める訓練として、終戦までに県内で20回以上行われた。
 静岡市側では現・JR東静岡駅の北側で農家約10棟や鉄工所の一部が燃えたという証言や、24時間体制で米軍機を見張る「防空監視哨(しょう)」の勤務記録にも「18時9分、爆音。中空に発光物」などの記載があり、米軍資料と合致する。
 本県は爆撃機が首都圏と名古屋方面に向かう通り道に当たり、空襲が頻発した。両会は米軍資料を基に都道府県単位で初めて静岡県の米軍の攻撃リストを作成し、長沼空襲の報告書はその調査で確認された。
 リストは11月24日の松崎町や下田市の空襲から累計100日分、B29、艦砲射撃、哨戒爆撃機等による攻撃の日時や目標、爆弾の種類と量などを示す。「つくる会」は米軍の撮影写真や長沼空襲の特集とともに2023年5月末まで、同市葵区の静岡平和資料センターで関連資料を展示する。

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