鉄砲玉(戦国末期) 三島市郷土資料館【美と快と-収蔵品物語㊽】

 箱根山西麓の尾根上にある国指定史跡「山中城跡」(三島市)は戦国時代末期、小田原城を本拠としていた北条氏によって、西方防衛の要所として築かれた山城跡。天正18(1590)年3月29日、小田原城を目指す豊臣軍の総攻撃を受け、わずか半日で落城したとされる。山中城に関連する史料は少なく、構造の詳細は明らかではないが、同市郷土資料館に収蔵されている「鉄砲玉」をはじめとする発掘調査による出土品は戦の激しさを物語っている。

鉄砲玉 戦国時代末期
鉄砲玉 戦国時代末期
「前立物」 戦国時代末期 最大長23・75センチ
「前立物」 戦国時代末期 最大長23・75センチ
三島市郷土資料館
三島市郷土資料館
鉄砲玉 戦国時代末期
「前立物」 戦国時代末期 最大長23・75センチ
三島市郷土資料館


山中城 合戦の痕跡
 天正15(1587)年11月の北条家朱印状が城の存在を確認できる初例という。敷地は東西500メートル、南北千メートルに及び、北条氏の城に共通する、堀の中に土手状の構造で区画した「障子堀」などが見られる。
 北条氏は同年正月から、豊臣軍の侵攻に備えて山中城を含む拠点城郭の修築を行っていた。一方、侵攻を受ける直前、山中城主の松田康長は箱根権現別当に宛てた手紙で、十分な防備がある上、相手は兵糧に難渋しているようだと、状況を楽観視する様子を記していた。結果、前方から進入してきた約6万7千の豊臣軍に対し、約4千の北条勢は次々と討たれた。
 1973年に始まった市の調査で、武器や武具のほか、割れた陶磁器などの日用品が発掘された。鉄砲玉は未使用の物も含めて197発が見つかった。青緑色の鉛青銅玉、白色の鉛玉、赤色の鉄玉の3種類。大きさはさまざまで、いずれも堀の底から出土した。柿島綾子学芸員(39)は「出土品は他の城跡に比べて少ない。この地で確かに戦が行われたことを伝える貴重な史料」と説明する。
 現代において、山中城跡は富士山と駿河湾の眺望や四季折々の自然が楽しめ、ネット上では「障子堀」が洋菓子の「ワッフル」に似ていると話題になるなど、観光スポットとなっている。柿島学芸員は「多くの人に愛されている史跡だと感じる。その歴史にも注目してほしい」と期待した。

かぶとの装飾、いずれも損壊 「前立物」戦国時代末期
 「前立物[まえだてもの]」は、かぶとの額部分に取り付ける装飾。山中城の南側に当たる「岱崎[だいさき]出丸」から出土した日輪の前立物は、薄い板の上に紙を貼り、赤漆で塗り固められている。表面には金箔[きんぱく]が押されていた。
 かぶとの鉢から垂らし、首から襟にかけて防御する「錣[しころ]」なども見つかり、この他に出土した武具などから、軽快な装備だったことが分かっている。柿島学芸員は「いずれも損壊していて、臨戦時の慌ただしさや落城した山城の歴史を伝えている」と話した。

 三島市郷土資料館 三島市一番町19の3。JR三島駅近くの市立公園「楽寿園」内にあり、三島の歴史、民俗、自然に関わる企画展を行うほか、体験学習を開催している。3階では、石器や三島宿関連資料、戦争資料などを展示し、旧石器時代から現代まで三島の歴史を伝える。山中城跡出土の「鉄砲玉」と「前立物」は常設展示している。

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