牧之原市史料館【美と快と-収蔵品物語(57)】

 江戸時代に相良藩が置かれた牧之原市相良の地。幕府の中枢で活躍した田沼意次(1719~88年)は、相良藩主として城下町を整備した。江戸詰めの意次がこの地を踏んだのは80(安永9)年4月のわずか10日間ほどで、その後に失脚したが、地元に残した足跡は大きい。市史料館の収蔵品は、「郷土の偉人」に対する住民の敬愛の思いを物語る。

「相良海老」 江戸時代後期
「相良海老」 江戸時代後期
「小柄」江戸時代 刃体12・2センチ
「小柄」江戸時代 刃体12・2センチ
田沼意次の肖像画(部分)
田沼意次の肖像画(部分)
牧之原市史料館
牧之原市史料館
「相良海老」 江戸時代後期
「小柄」江戸時代 刃体12・2センチ
田沼意次の肖像画(部分)
牧之原市史料館


 浮かぶ 意次の人物像
 田沼意次と聞けば、その優れた政治手腕を認めながらも、同時に「賄賂政治」を連想する人が少なくない。しかし、実力者に毀誉褒貶[きよほうへん]は付きもの。「金権政治家」のイメージにとどまらない人物像が、書物から浮かび上がる。
 「相良海老[えび]」は、江戸時代に流行した「田沼騒動物」と言われる読み物の一つで、事実に脚色を加えて書かれている。原作者は分かっていない。市史料館が所蔵するのは全6巻の和とじ本。旧相良町が町内の旧家から寄贈を受けた写本で、記名がある「小泉源治郎」は書き写した人とみられる。
 同館の長谷川倫和学芸員(33)は「内容は意次の伝記。関係した事件や、子の意知のこと、相良城が取り壊された経緯など、いいことも悪いことも書いてある」と解説する。子ども時代は「はつ明英知の人」と賢明さ、利発さを強調。「将棋四段」といった記述もある。一方で、賄賂政治を誇張して批判する内容も多い。
 当時、幕府や政治を批判する書物はご法度だった。相良の名物を書名にしてカムフラージュし、読み書きができる階層の人がゴシップを楽しむ感覚で読んだとみられている。他の同名の書物と違って大井川など周辺地域に関しても書かれ、長谷川学芸員は「中身を書き加えながら流通したのではないか」と推測する。
 反田沼運動に遭った意次は1786(天明6)年に老中を罷免された。所領を失い、相良城も取り壊された。政治家として実績を持つ意次の再評価は、大正時代の研究を待たなければならなかった。
 長谷川学芸員は「経済通の改革者で、相良の市街地を築いた人。地元では民間の活動を中心に再評価の機運が高まっている」と話す。
 (文/生活報道部・山本淳樹、写真/写真部・田中秀樹)

 信心忘れぬ二つの家紋 「小柄」江戸時代
 日本刀のさやに付けられる小刀である小柄[こづか]。2種類の紋所は、どちらも田沼家のものだ。本体の刀は残っていないが、家老を務めた近隣市町の旧家から2019年に寄贈された。
 田沼家の家紋は元々、中央部にある「丸に一文字紋」だった。その両脇の「七曜紋」は、意次の父意行が子を授かるよう七面大明神に祈ったことにちなむ。ようやく生まれた嫡男が意次で、信心を忘れないよう家紋にしたと伝わる。2種類の紋をあしらった小柄は珍しく、田沼家が先祖の言を大事に守ってきたことを示す。
 相良は一時、一橋家の領地になったが、1823(文政6)年に田沼家が相良藩主に復帰。明治時代を迎えて廃藩となった。長谷川学芸員は「小柄はおそらく刀と一緒に褒美として家臣に渡ったのではないか。実際に殿様が使っていた可能性は十分にある」と話す。

 牧之原市史料館
 牧之原市相良275の2。1981年、相良町史料館として開館。相良藩主だった田沼意次が築いた相良城の本丸跡地にある。ほかにこの地を治めた相良氏や本多氏など同市ゆかりの人物に関する資料も展示している。城を想起させる白壁の建物の前には、意次の生誕300年を記念して市民らの寄付で2021年に建立した銅像が建つ。

 ◇お断り 「美と快と」は終了します。

 

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