「絵が助けてくれる」という確信があった 絵本作家(浜松市出身)/スズキコージ【あのころの私①】

 さまざまな分野で活躍する県内出身者は、子供時代をどのように過ごしたのか。友人や教師との付き合い、部活や勉学、挫折と苦労-。現在の立場につながる出来事や目標への努力、工夫を語ってもらうインタビュー企画。初回は絵本作家のスズキコージさん(75)=浜松市出身=。

高校の友人や先輩からさまざまな文化的な刺激を受け取ったというスズキコージさん=6月下旬、神戸市
高校の友人や先輩からさまざまな文化的な刺激を受け取ったというスズキコージさん=6月下旬、神戸市
高校時代のスズキコージさん。「自宅では押し入れで暮らしていた。『人工衛星』と呼んでいた」(本人提供)
高校時代のスズキコージさん。「自宅では押し入れで暮らしていた。『人工衛星』と呼んでいた」(本人提供)
高校の友人や先輩からさまざまな文化的な刺激を受け取ったというスズキコージさん=6月下旬、神戸市
高校時代のスズキコージさん。「自宅では押し入れで暮らしていた。『人工衛星』と呼んでいた」(本人提供)

 浜名中から浜松西高に入り、まだ赤くなかった遠鉄とバスで1時間半ぐらいかけて通っていました。勉強は苦手だったけれど、西高に入ったら「絵が俺を助けてくれる」という確信があったんです。
 美術部で寝ても覚めてもアートの活動。絵を志している連中とワイワイしながら、大いにデッサンをやりましたよ。(消しゴムの代わりに)パンで消すんですが、腹が減っているから、みんなでそれを食べちゃったりして。
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 特に親しかったのは先輩を含めた7、8人でした。みんな、外れもんだった。学校をサボって映画を見に行きました。(浜松)東洋劇場で「アラビアのロレンス」やブリジット・バルドー主演の「軽蔑」をやっているからって、誘い合って行くわけです。
 部室では美術雑誌を回し読みしていました。米ニューヨークでの(アート表現の)ハプニングの様子が写真付きで載っていた時代。日常をぶちやぶる空間を自分たちでつくり出すことに憧れて、市役所前の広場に、大きなお月さまの絵を描いたこともあります。
 ビート文学の影響で、市内の路上をはだしで歩いたりも。くぎは落ちているし、とがった石はあるし、振り返ってみると、あんな苦行はないですね。
 あの頃は、自分が面白いと思ったことを、全部友達に話すわけです。ジャズやビートルズも先輩や友達に教わった。実存主義にかぶれた男には哲学者サルトルの著書「嘔吐[おうと]」を薦められました。嘔吐の意味が分からず、辞書で調べた覚えがあります。
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 (自分は)焼き鳥の串みたいなもの。一本の串に肉やネギなどを刺して串焼きにしますよね。いろいろなもの、おいしいものを貫いている。その竹串が僕の真実です。
 今振り返ると、17、18歳が一番さえていた時代だった。頭がはぜて、自分の中で火山活動のようなものがズボーンと起きた。火が付いちゃっているから、水をかけても消えない。当時のスケッチブックを見ると、自分の活動が毎日面白くてしょうがない様子です。先のことは考えられない。自分の現在を満喫して、表現して、朝が来る。
 今の中学生、高校生は周囲に情報が多いから、少し気の毒です。僕らは情報が少なかったから怖いもの知らずでいられた。世の中でいろんな体験をして、いろんな人に会って。
 いいこともあるけれど、困っちゃうときもある。でも、困っちゃう場面から得た体験は必ず生きるからね。芸術に限らず、物事それぞれが自分に向いているかいないか分かりますし。「体験する大事さ」は今も昔も変わらないはずです。
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 高校時代、みんなで東京を目指したけれど、芸術系の大学の入試に受かった人は周囲にはいなかった。合格した(他校の)人の絵をちらっと見たけれど、やっぱり技術が高いんですよ。
 同時に、自分はこういう路線じゃないとはっきりわかった。絵なんてね、描き続けていればうまくなるんです。受験だけのために描くなんてもったいないと思いますよ。
 (聞き手=教育文化部・橋爪充)

 すずき・こーじ 1948年、浜松市生まれ。71年に「ゆきむすめ」で絵本画家としてデビュー。「エンソくんきしゃにのる」で小学館絵画賞、「やまのディスコ」で絵本にっぽん賞、「ブラッキンダー」で日本絵本賞大賞など。県内各地でライブペインティングも繰り広げる。2012年、高校卒業後から過ごした東京を離れ、神戸市に移った。

 

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