「絵が助けてくれる」という確信があった 絵本作家(浜松市出身)/スズキコージ【あのころの私①】
さまざまな分野で活躍する県内出身者は、子供時代をどのように過ごしたのか。友人や教師との付き合い、部活や勉学、挫折と苦労-。現在の立場につながる出来事や目標への努力、工夫を語ってもらうインタビュー企画。初回は絵本作家のスズキコージさん(75)=浜松市出身=。
浜名中から浜松西高に入り、まだ赤くなかった遠鉄とバスで1時間半ぐらいかけて通っていました。勉強は苦手だったけれど、西高に入ったら「絵が俺を助けてくれる」という確信があったんです。
美術部で寝ても覚めてもアートの活動。絵を志している連中とワイワイしながら、大いにデッサンをやりましたよ。(消しゴムの代わりに)パンで消すんですが、腹が減っているから、みんなでそれを食べちゃったりして。
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特に親しかったのは先輩を含めた7、8人でした。みんな、外れもんだった。学校をサボって映画を見に行きました。(浜松)東洋劇場で「アラビアのロレンス」やブリジット・バルドー主演の「軽蔑」をやっているからって、誘い合って行くわけです。
部室では美術雑誌を回し読みしていました。米ニューヨークでの(アート表現の)ハプニングの様子が写真付きで載っていた時代。日常をぶちやぶる空間を自分たちでつくり出すことに憧れて、市役所前の広場に、大きなお月さまの絵を描いたこともあります。
ビート文学の影響で、市内の路上をはだしで歩いたりも。くぎは落ちているし、とがった石はあるし、振り返ってみると、あんな苦行はないですね。
あの頃は、自分が面白いと思ったことを、全部友達に話すわけです。ジャズやビートルズも先輩や友達に教わった。実存主義にかぶれた男には哲学者サルトルの著書「嘔吐[おうと]」を薦められました。嘔吐の意味が分からず、辞書で調べた覚えがあります。
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(自分は)焼き鳥の串みたいなもの。一本の串に肉やネギなどを刺して串焼きにしますよね。いろいろなもの、おいしいものを貫いている。その竹串が僕の真実です。
今振り返ると、17、18歳が一番さえていた時代だった。頭がはぜて、自分の中で火山活動のようなものがズボーンと起きた。火が付いちゃっているから、水をかけても消えない。当時のスケッチブックを見ると、自分の活動が毎日面白くてしょうがない様子です。先のことは考えられない。自分の現在を満喫して、表現して、朝が来る。
今の中学生、高校生は周囲に情報が多いから、少し気の毒です。僕らは情報が少なかったから怖いもの知らずでいられた。世の中でいろんな体験をして、いろんな人に会って。
いいこともあるけれど、困っちゃうときもある。でも、困っちゃう場面から得た体験は必ず生きるからね。芸術に限らず、物事それぞれが自分に向いているかいないか分かりますし。「体験する大事さ」は今も昔も変わらないはずです。
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高校時代、みんなで東京を目指したけれど、芸術系の大学の入試に受かった人は周囲にはいなかった。合格した(他校の)人の絵をちらっと見たけれど、やっぱり技術が高いんですよ。
同時に、自分はこういう路線じゃないとはっきりわかった。絵なんてね、描き続けていればうまくなるんです。受験だけのために描くなんてもったいないと思いますよ。
(聞き手=教育文化部・橋爪充)
すずき・こーじ 1948年、浜松市生まれ。71年に「ゆきむすめ」で絵本画家としてデビュー。「エンソくんきしゃにのる」で小学館絵画賞、「やまのディスコ」で絵本にっぽん賞、「ブラッキンダー」で日本絵本賞大賞など。県内各地でライブペインティングも繰り広げる。2012年、高校卒業後から過ごした東京を離れ、神戸市に移った。