老朽化 消えゆく「戦争遺跡」 静岡・歩兵第34連隊 最後の施設解体【戦後78年 しずおか】

 戦後78年がたち、戦争の記憶を伝える「戦争遺跡」が少しずつ姿を消している。旧陸軍の歩兵第34連隊(静岡連隊)が置かれた静岡市では今年、連隊関連の最後の建物だった旧訓練施設が解体された。戦争の悲惨さを感じさせる「実物」が消失することにより、記憶の継承を危ぶむ声が上がっている。

解体前の陸軍静岡練兵場訓練講堂だった建物=2019年4月、静岡市葵区(静岡平和資料センター提供)
解体前の陸軍静岡練兵場訓練講堂だった建物=2019年4月、静岡市葵区(静岡平和資料センター提供)
歩兵第34連隊の兵営跡/練兵場跡
歩兵第34連隊の兵営跡/練兵場跡
解体前の陸軍静岡練兵場訓練講堂だった建物=2019年4月、静岡市葵区(静岡平和資料センター提供)
歩兵第34連隊の兵営跡/練兵場跡

 今年6月に解体されたのは「陸軍静岡練兵場訓練講堂」。1936年建築の木造平屋建て約50平方メートルの建物で、練兵場があった葵区城東町の住宅地の一画に残っていた。戦時中に兵器として使われた毒ガスに対応する訓練用の施設。建物の内部に催涙ガスをたき、連隊の兵士が防毒マスク装着を訓練したとの証言が残る。
 戦後、練兵場跡地には市営住宅が立ち並んだが、訓練講堂は建築当時の位置に残った。民間の個人所有者が払い下げを受け、近年まで倉庫や住宅として使用した。建物壁面にガス注入口や排出口が残るなど、兵士の訓練施設だった当時の様子をとどめていた。
 市文化財課によると、建物の老朽化などから所有者が昨年、取り壊しを決めた。市は保存を巡って所有者から相談を受けたが、「指定文化財にする基準に達していない」(同課)として、解体前の図面の作成、記録にとどめたという。
 静岡連隊関連の建物は、駿府城跡(葵区)の兵営にあった「将校集会所」が戦後、県護国神社(葵区柚木)隣接地に移築されて残っていたが、2021年3月までに解体された。平時は数千人規模の軍隊が置かれた「軍都」だった同市で、同連隊や陸軍施設が存在したことを示すものは、陸軍墓地(葵区沓谷)のほか記念碑や標識などごくわずかになっている。
 県内の戦争遺跡を調べた県近代史研究会員の村瀬隆彦さん(62)は「(訓練講堂を)ここまで個人の努力で残してきたことに感謝したい」と話す。その上で「地域から戦争を見つめるためには実物を残す意義は大きい。市民から資料を受け入れる態勢を作ったり、記録保存をしたりすることが重要で、行政の力が必要になる」と指摘した。
 (生活報道部・山本淳樹)
静岡平和資料センター戦跡調査へ 「現物保存が必要」 photo02 親子連れを前に話す浅見幸也さん。今後、戦争遺跡を改めて調べる=12日、静岡市葵区の静岡平和資料センター
 「戦争の記憶を風化させないためには、現物を保存することが必要。広島の原爆ドームがその象徴だ」。戦争資料や体験画の収集に当たる静岡平和資料センター(静岡市葵区)の田中文雄センター長(75)は、訓練講堂の解体を惜しむ。「戦争遺跡は写真や記念碑では代えられない。34連隊の生々しい遺跡はほかになかった」
 センターは新型コロナウイルス流行前、市内の戦争遺跡を希望者に案内する「戦跡めぐり」を定期的に開いていた。訓練講堂の建物も対象で、所有者の許可を得て見学していたが、今後はかなわなくなった。
 センター運営に携わる市民有志は、戦争遺跡の調査・記録にも取り組む。清水区には特攻艇「震洋」格納庫だった構造物が複数あるが、必ずしも現状を確認できていない。このため、近く市内を中心とした戦争遺跡を改めて現地調査し、写真展示などで紹介することにした。
 センター顧問の浅見幸也さん(85)は、戦後に生まれた世代がほとんどを占める時代を意識している。「連隊の兵士が遺骨になって戻ったり、戦場で毒ガス兵器が使われたりした事実があるが、こうした想像が広がらない。戦争遺跡をじかに見ることがますます大事になっている」
 <メモ>陸軍歩兵第34連隊 1896(明治29)年に創設。翌年に静岡市に移り、静岡連隊とも呼ばれた。駿府城跡(現葵区)に兵営を置き、陸軍は周辺に練兵場(現葵区城東町)、射撃場(現駿河区大谷)を設けた。主に県中部、東部の出身者で編成。日露戦争以降、第1次世界大戦、山東出兵、日中戦争などに参加し、多くの戦死者を出した。1945年8月、中国での作戦中に終戦を迎え、同11月に廃止となった。 photo02 かつて練兵場があったことを示す「陸軍省所轄地」の標識と看板=13日、静岡市葵区城東町

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