後北条の築城技術の粋を集めた「山中城」ってどんな城? ローム層の蟻地獄「障子堀」 家康も参加「小田原合戦」緒戦で、豊臣大軍により落城

◆【城の概要】北条の小田原防衛の要 国境守る「境目の城」
山中城のイメージイラスト(三島市教育委員会提供)
 北条早雲(伊勢宗瑞)を始祖とする関東の雄・小田原北条氏。関東支配の拠点である小田原城の西方を守る要が山中城だ。天下統一を目指す豊臣秀吉の軍に攻め込まれた天正18(1590)年の「小田原合戦」では、山中城を巡る攻防が同合戦の緒戦となった。
 城の広範囲に築かれている「障子堀」は、北条氏の城にしばしば見られる防御施設。堀の中に複数のついたて障子を立てたように土を掘り残し、縦横数メートル、深さ2メートルほどの堀中に侵入者を落下させ、上から攻撃を浴びせかけた。滑りやすい土質ゆえ、一度落ちると上がるのが困難で、ローム層のあり地獄とも表現される。この「障子堀」をはじめ、北条氏の築城技術の粋を集めた土の城だったが、豊臣軍の圧倒的な兵力を前に屈した。
 正確な築城時期は明らかでないが、永禄年間(1530~60年頃)、北条氏により築かれたと考えられている。永禄11(1568)年には甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、甲斐の武田・相模の北条・駿河の今川による和平協定「甲相駿三国同盟」が崩壊。山中城は、甲斐・駿河との国境を警備する「境目の城」のほか、北条方の韮山城や足柄城などと連携する「つなぎの城」としての役割も果たしていた。また、箱根路を城内に取り込む構造となっていて、関所の機能もあったとみられる。
 箱根西麓の中腹、標高約580メートルに築かれた山城。城域は東西約500メートル、南北約1000メートル。二つの川の源流に挟まれ、急峻(きゅうしゅん)な斜面にも囲まれた天然の要害で、城内からは伊豆北部や駿東の大半を一望できる。
◆【そもそも小田原合戦なぜ起きた?】沼田領問題が発端 豊臣と北条の確執が表面化

 織田信長の横死後に台頭した豊臣秀吉。天下統一を目指し、各地の武将に臣従を求めた。秀吉と敵対していた徳川家康も天正14(1586)年に臣従。なかなか応じなかった関東の雄・北条氏も、4代当主の弟・氏規が上洛(じょうらく)・秀吉に謁見した。
 秀吉は北条氏が自らの政策を受け入れるものとみなし、北条と真田が対立していた「沼田領問題」に裁定を下した。北関東の交通の要衝・沼田領を巡る争いに対し、沼田領の3分の2を北条領、3分の1を真田領とし、真田が失った領土分については徳川が真田に与えるとした。しかし秀吉裁定に反し、北条方が真田領土とされた名胡桃城(なぐるみじょう、群馬県)を奪取。激怒した秀吉は天正17(1589)年、宣戦布告して小田原攻めを決めた。
 豊臣軍は北条征伐として、山中城攻撃(総大将・豊臣秀次)、韮山城攻撃(総大将・織田信雄)、小田原城攻撃(先鋒・徳川家康)を計画。天正18(1590)年3月以降、小田原城の支城だった静岡県東部の城を次々に落とした。さらに後北条氏の関東支配の拠点「小田原城」(小田原市)を大軍で包囲し、7月に北条氏を降伏させた。北条の4代・氏政らは切腹、5代・氏直は高野山に追放処分となり、早雲以来の北条氏は終焉(しゅうえん)を迎えた。
◆【山中城攻防戦 どんな戦い?】豊臣大軍が力攻め わずか半日で落城
​​障子堀(手前)。保護のために芝生が貼られている
 天正18(1590)年3月29日、豊臣方は「小田原合戦」の緒戦として山中城総攻撃を行った。総大将は豊臣秀次、先鋒は中村一氏(後の駿府城主)で、田中吉政(同岡崎城主)、堀尾吉晴(同浜松城主)など、秀吉重臣が参加した。秀吉も秀次本陣に赴いた。徳川家康はじめ、家康の家臣の本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世らが北西方面に布陣していたと記述する後の時代の絵図が複数残っているが、家康が果たした役割は不明。
 北条方約4千人に対し、豊臣方は約7万の大軍で攻め、わずか半日で落城させたとされる。力攻めで圧勝することで、籠城戦となっていた韮山城はじめ北条方に豊臣の力を知らしめる目的があったと考えられている。死者は両軍合わせて数千人に上ったと伝わる。
 山中城での戦の様子は、一番槍の功を立てた豊臣方武将・渡辺勘兵衛の武功を紹介する史料「渡辺勘兵衛記」に記されている。豊臣方は、塹壕(ざんごう)を掘って敵の攻撃を避けながら城に接近。一時は鉄砲で足止めされたものの、鉄砲の煙が薄くなってから侵入を再開。敵を追い詰め、最後は矢倉でやりのたたき合いとなり、後北条の大将と副将とみられる武将が果てた。発掘調査からは鉄砲のほか、飛礫(つぶて)も見つかり、新旧の武器が併用された戦だったことがうかがえる。
​​売店で販売している「障子堀ワッフル」
 戦国の山城の様子がよく分かるとして昭和9(1934)年、国指定史跡となった。三島市は堀や土塁を芝で保護し、史跡公園として開放している。城跡にある売店では、障子堀を連想させる「障子堀ワッフル」を販売中。
(「史跡 山中城跡発掘調査と環境整備事業の概要」、「三島市誌中巻」、三島市文化財課への取材を元に作成)

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