豊田章一郎さん死去 トヨタ礎築き人育てる 「第二の古里」湖西、関係者驚きと悲しみ

 14日に97歳で死去した豊田章一郎さんは、トヨタ自動車の現場を深く理解し貿易摩擦と苦闘しながら日本型経営を貫いた。現場の実態を重視する「現地現物(げんちげんぶつ)」を合言葉に、従業員や取引先と実直に向き合った章一郎さんは、日本企業のグローバル化を代表する経営者だった。

豊田佐吉顕彰祭で、佐吉の胸像前で献花する章一郎名誉会長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、佐吉の胸像前で献花する章一郎名誉会長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
トヨタ自動車田原工場を視察する豊田章一郎社長(左から2人目)=1989年6月
トヨタ自動車田原工場を視察する豊田章一郎社長(左から2人目)=1989年6月
豊田佐吉顕彰祭で、子どもたちと記念写真に納まる章一郎名誉会長(右から3人目)。隣は章男社長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、子どもたちと記念写真に納まる章一郎名誉会長(右から3人目)。隣は章男社長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、章一郎名誉会長とあいさつを交わす鈴木修相談役(手前左)=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、章一郎名誉会長とあいさつを交わす鈴木修相談役(手前左)=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、佐吉の胸像前で献花する章一郎名誉会長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
トヨタ自動車田原工場を視察する豊田章一郎社長(左から2人目)=1989年6月
豊田佐吉顕彰祭で、子どもたちと記念写真に納まる章一郎名誉会長(右から3人目)。隣は章男社長=2018年10月30日、湖西市立鷲津中
豊田佐吉顕彰祭で、章一郎名誉会長とあいさつを交わす鈴木修相談役(手前左)=2018年10月30日、湖西市立鷲津中

 「発明王」と呼ばれた湖西市出身の豊田佐吉を祖父に、トヨタ自動車を創業した喜一郎を父に生まれた。
 章一郎さんを経営者として育てたのは、父のいとこで前任の社長だった豊田英二氏だ。英二氏を支えた副社長、専務ら「番頭」たちは創業家の直系である章一郎さんを相当厳しく鍛えた。負の感情を表に出さない我慢強さは、この時代の苦労によって培われた。
 1982年に製造会社と販売会社を合併し、現在のトヨタ自動車が生まれ、章一郎さんが社長に就任した。入社から30年たっていた。英二氏の時代にトヨタは国内最大の自動車メーカーに成長し、日本の輸出産業の代表格に。それは同時に、貿易摩擦の最前線に立つことを意味した。「ジャパン・バッシング(日本たたき)」にもまれながら決断したのが、米国での現地生産だ。80年代半ばに米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁生産をカリフォルニア州でスタートさせ、88年にはトヨタ単独での生産をケンタッキー州で始めた。
 95年6月には決裂寸前だった日米自動車交渉を、当時の駐日米大使のモンデール氏に対米投資計画を約束することで合意に導き、実力を内外に示した。経団連会長を務めた奥田碩氏、米国での単独生産を委ねた張富士夫氏ら優れた経営者を次々に育てたのも大きな功績。アフリカの難民キャンプを視察した時、「やっぱり現地を見ないとな」とかみしめるように語っていた。脱炭素時代を迎え自動車も変革期に直面しているが、章一郎さんが送るメッセージは変わらないだろう。
 
第二の古里 湖西喪失感 「知識欲旺盛な姿印象」
 トヨタ自動車名誉会長・豊田章一郎さんは、トヨタグループ創始者で祖父に当たる豊田佐吉の古里・湖西市を大事にしていた。2002年には名誉市民章を受け、「第二の古里」ともいえる同市の関係者からは驚きと悲しみの声が聞かれた。
 佐吉の命日の10月30日に同市主催で毎年開かれる顕彰祭には、長年出席してあいさつしてきた章一郎さん。20年を最後に欠席が続いたが、突然の訃報に影山剛士市長は「湖西のことをいつも思ってくれていて、感謝しかない。市の近況を聞かれることも多く、知識欲旺盛な姿が印象に深く残っている」と声を詰まらせた。
 1981年にトヨタ自動車販売の社長になった章一郎さんを応援しようと湖西市の有志らが立ち上げた「クラウン会」を通じ、40年近くのつながりがあった浜名製作所会長の菅沼成欣さん(86)は「大木が静かに倒れた」と喪失感を口にした。「湖西には子どもの頃から来ていて、第二の古里と思ってくれていた。知人も多く、付き合いを大事にしてくれた。謙虚でユーモアがある人柄に引かれ、多くの人が集まった」と別れを惜しんだ。

「優しい人柄だった」 スズキの鈴木修相談役
 豊田章一郎さんと長年親交のあったスズキの鈴木修相談役(93)は14日、訃報に「(苦しい時に)協力をお願いした。大変驚いている」と肩を落とした。
 2016年に動き始めたスズキとトヨタの業務提携の流れは、当時会長だった鈴木相談役が名誉会長の章一郎さんに相談を持ちかけたことが起点になった。国際的な自動車業界の再編が加速する中、スズキは独フォルクスワーゲン(VW)との資本・業務提携につまずき、苦境に立たされていた。
 鈴木相談役は提携検討当時、章一郎さんについて「長い間、励ましの声をいただいた。お兄さんのような存在」と語り、信頼関係を強調していた。
 18年秋の豊田佐吉顕彰祭(湖西市)で顔を合わせたのが最後になった。鈴木相談役は「冗談を言われた」と言葉を交わした情景を思い起こし、「優しい人柄だった」としのんだ。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞