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【なにぶん歴史好きなもので】まさかの「家康の脱糞」が鍵?信玄にやられっぱなしの家康が唯一、一矢報いた「一言坂の戦い」の謎に迫る!

徳川家康と武田信玄の戦いといえば「三方原の戦い」が有名ですが、県内にはその前哨戦ともいえる戦いの逸話が各地に残っています。磐田市に伝わる「一言坂(ひとことざか)の戦い」もその一つ。一体どんな合戦だったのか『一言坂の戦い 武田信玄遠州侵攻す』(発売元・静岡新聞社)の著者・岡部英一さんに話を聞きました。

聞き手/鈴木淳博(静岡新聞社編集局出版部)
イラスト/たたらなおき

■『一言坂の戦い 武田信玄、遠州侵攻す』概要
元亀3(1572)年に起きた「三方ケ原の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗北を喫した合戦だった。前哨戦も含め、武田軍に連戦連敗を重ねた徳川軍。だが、その中で唯一、敵に一矢報いた戦いがあった。現在の磐田市で行われた「一言坂の戦い」である。徳川家臣・本多忠勝の奮戦など、断片的な逸話のみが伝わるこの合戦の全容を、地元在住の著者が史実をもとに考察をまとめた歴史推理書。
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『一言坂の戦い 武田信玄遠州侵攻す』の著者・岡部英一さん

後世に語り継がれた本多忠勝の奮戦

――岡部さんは「一言坂の戦い」について調べられたそうですが、まずは戦いの概要から教えていただけますか。

岡部: 一言坂は磐田原台地の西端にある坂です。元亀3年(1572)、武田信玄が遠江へ侵攻すると、徳川家康は偵察隊を派遣し、木原畷(きはらなわて=袋井市)付近で合戦となりました。

武田の大軍を前に退却を余儀なくされた徳川軍ですが、一言坂の辺りで敵に追いつかれ、再び戦闘が起こります。これが世に言う「一言坂の戦い」です。

殿(しんがり)を務めた本多忠勝が奮戦したことから、「家康に過ぎたる物は二つある、唐の頭に本多平八」と称賛された戦いとしても知られています。

――調べ始めたきっかけは何だったのでしょう。

岡部: 私が昭和50年代に天竜から磐田に引っ越してきた際、国道沿いに「一言坂の戦跡」という石碑が建っているのを見て、これは一体なんだろうと思ったのが始まりです。

一言坂の戦跡と記された石碑(磐田市)


戦いについて知りたいと思い、文献をいろいろと読んでみたのですが、同時代の史料がまったくなく、後世にまとめられた歴史書を読んでも矛盾が多くてよく分からないんですね。不思議なことに、合戦当時、家康がどこにいたのかという基本的なことでさえ、文献によって記述がバラバラなんです。

――どういうことでしょうか

岡部: 歴史書の中でも成立年代が比較的古いものは「家康本人も磐田原台地へ出陣した」と記されています。その一方、後世に幕府によって編纂された文献には「家康自身は出陣せず、浜松城で指揮を執っていた」と書かれているんです。

――何か理由があるんでしょうか?

岡部: 私が注目したのは「家康の脱糞」に関する描写です。世間に流布している言い伝えの中に「三方原の戦いに敗北した家康は、退却する際、恐怖のあまり脱糞した」という話があります。

この元ネタは何かといいますと、実は一言坂の戦いなんですね。『三河後風土記』(1610年成立)には、家康が一言坂の戦いから浜松城に逃げ戻った際、家臣の大久保忠佐に「馬に鞍に糞が付いている」と指摘されるくだりがあるのです。

――家康の脱糞話は有名ですが、三方原の戦いではなかったんですね。

岡部: はい。ところが、これが200年後の『改正三河後風土記』(1838年成立)では「神君(家康)はそもそも出陣していなかったとしています。それゆえ、『糞を垂れて逃げ帰った』という話はありえない」として、これを妄説だと言い切っています。

確かに神である家康が脱糞したなんていう話は、幕府としてはとんでもない不名誉ですから訂正したくなる気持ちも分かります。ただ、こうした後世の忖度があったために、結局家康は出陣したのか、しなかったのか、よく分からなくなってしまいました。

磐田原の戦いの史跡配置図(『一言坂の戦い』より抜粋)

 

起死回生の奇襲を狙った?地元には夜戦の伝承も

――家康の出陣問題について、岡部さんはどう考えているんですか?

岡部: 私は出陣したと思っています。三河生まれの家康にとって、遠江の国衆たちはいつ信玄に寝返るか分からない存在です。そんな彼らをつなぎ止めておくには、自ら城を出て、武田の軍勢に立ち向かう姿勢を見せなければなりません。

それに、一言坂の戦いにおける本多忠勝の活躍も、自らの大将を死なせずに退却させたからこそ、後世まで語り継がれるほど賞賛されたと考える方が自然です。

――家康に勝算はあったのでしょうか。

岡部: これは私の推測に過ぎませんが、一言坂の戦いを含む一連の合戦は、夜に行われたのではないかと考えています。

文献によると家康が率いた軍勢は1500程とされていますが、この人数で2万を超える武田軍に真正面から攻めかかるのは無謀すぎます。戦況は圧倒的に不利であるものの、出馬せざるを得ない。

であれば、夜陰に紛れた奇襲攻撃で起死回生を図る。こうした思考が家康の脳裏にはあったのではないでしょうか。

――文献には、合戦の時刻は記されていないのですか?

岡部: はい。何時に行ったという記述はありません。ただ、地元には徳川軍が提灯の明かりを利用し、敵を沼地におびき寄せて討ち取ったという「挑燈野(ちょうちんの)」の伝承があります。

これまでは、この逸話だけが夜に行われた戦いとして言い伝えられていたのですが、磐田原台地で起こった戦いをすべて夜間の出来事と想定した方が、家康が出陣した理由も説明がつくと考えました。

――結果的には敗走となったものの、武将としての意地は示したということですね。

岡部: この戦いに勝った武田軍は、北上して二俣城を攻め、三方原の戦いでも徳川軍を打ちのめします。家康は信玄に終始、やられっぱなしではあるのですが、一言坂の戦いはその中で唯一、敵に一矢報いた戦いなんです。

私がこの戦いについての本を書いたのも、まずは伝承を繋ぎ合わせて戦いの全体像を提示してみたかったからです。確たる史料はないため、あくまで「歴史推理書」としてまとめましたが、これを叩き台にして次世代の方が新たな一言坂の本を出していただけることを期待しています。

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◆岡部英一さん
1951年、磐田郡光明村船明(現・浜松市天竜区船明)生まれ。浜松工業高等学校電気科卒業後、メーカー勤務を経て、定年退職後に歴史豊かな地元磐田市の、郷土史の掘り起こしに取り組む。著書に「一言坂の戦い」「緑十字機 決死の飛行」「不昧と宗雅と見付宿」など。

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