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静岡新聞出版部

【新コラム】「なにぶん歴史好きなもので」難攻不落の高天神城に隠されたミステリーとは!?

歴史や文化をテーマに書籍を発行する静岡新聞出版部の編集者が歴史好きなゲストから旬な話を聞く「なにぶん歴史好きなもので」。記念すべき第1回のゲストは、大河ドラマ「どうする家康」の史跡紹介コーナーにも登場した掛川市観光交流課の戸塚和美さんです。制作を手掛けたパンフレット「家康読本」シリーズが、「無料にしては情報が充実しすぎている」と一部マニアの間で話題になっています。
イラスト/たたらなおき、聞き手/鈴木淳博

「無料にしては充実しすぎ!」と話題

――「家康読本」シリーズ、拝見しました。掛川に残る城跡の歴史や見どころがみっちり詰まってますね。よくある観光パンフレットに比べると、かなりディープな内容だと思うんですが、刊行した狙いは何だったんですか。

戸塚:大河ドラマを機に、市内にある徳川家康ゆかりの地をPRしようというのが、そもそもの始まりです。
掛川の史跡といえば、掛川城とか高天神城などのお城が有名ですが、それらの城が家康とどう関係しているのかって、意外と知られてないんですよね。じゃあ、改めて書いてみるかと思ってまとめたら、かなりのボリュームになっちゃって。
自分でも書きすぎたってわかってたんですけど、制作スタッフも「面白い!」って現地の撮影まで行ってくれたので、結局、そのまま詰め込んで出すことにしました(笑)。

パンフレットを作成した戸塚和美さん


――家康の城攻めの経緯とか、縄張図の解説とか、かなりマニアックに言及していますよね。発行後の反響はどうでしたか。

戸塚:2022年12月に第1弾となる「高天神城読本(後に「高天神城家康読本」に改題)」を出したのですが、最初はSNSで結構話題になって、1カ月足らずで印刷した5000部が全てはけてしまいました。
第2弾の「掛川城」までは最初から作ることが決まっていたのですが、一般の方から「横須賀城はいつ出るの?」という問い合わせがあって、これは作るしかないとなって。
今年10月に無事、「横須賀城」を出せたので、ひとまず掛川三城がそろったという感じです。

高天神城・掛川城・横須賀城がそろった家康読本シリーズ

高天神城が攻めにくい理由

――掛川といえば、徳川・今川・武田の各勢力がぶつかった地域だと思いますが、残っている城跡になにか特徴はありますか。

戸塚:やはり改めて思うのは砦(とりで)の多さですね。永禄11年(1568)に徳川家康が三河から遠江へ侵攻するのですが、同じタイミングで武田信玄も駿河へ攻め入ってくる。
駿府を追われた今川氏真は掛川城へ逃げ込み、そこに家康がやってきて開城を迫るんです。この時、家康は掛川城の周りにたくさんの砦を築いて、包囲戦を仕掛けるんですね。

――徳川軍が高天神城を奪還する時も、家康は包囲戦をやってますよね。

戸塚:はい。天正6年(1578)以降、武田軍が籠もる高天神城の周辺に、家康は数多くの砦を造って敵の補給路を遮断します。
このときに造られた砦は一般的に「六砦」(ろくとりで)と呼ばれていますが、実際には20か所もある。これよって高天神城は完全に孤立し、最終的には落城してしまいます。
この戦いによって武田氏は滅亡の道を歩み始めたとも評される、非常に画期となる戦いでした。

――高天神城といえば難攻不落と評される山城ですが、なんでそんなに攻めにくいんですか?

戸塚:そもそも高天神城が連なる小笠山自体がかなり急峻な山なんですよ。掛川市内を見ても、あれだけ険しい地形は他にないと思います。
古大井川の扇状地が隆起してできた山なので、砂利を含んだ層も多く、雨などで長い年月の間に泥が削られていった結果、急な傾斜ができあがったといわれています。

高天神城・堂の尾曲輪の横堀と土塁/戸塚さん提供


――なるほど。ただ結構、落城もしてますよね?

戸塚:ええ。実は高天神城には弱点があって、それが西峰なんですね。ここだけ傾斜が緩やかで、今でも下から歩いて登っていけるんですよ。天正2年(1574)に武田勝頼が徳川軍の籠もるこの城を攻撃しているんですが、この時もやっぱり西峰から攻め入って落としている。
ただ、武田軍がすごいのは、この後に弱点を補うべく、城の改修工事をするんですね。当時の最新技術で、西峰にある曲輪に長大な横堀と土塁を築いて、敵が入ってこれないようにした。しかも、この横堀は単なる遮断線じゃなくて、攻めてきた敵兵を袋小路に追い詰める罠になっている。横堀の中を移動してきた敵兵たちを、行き止まりまで巧みに誘導して上から弓や鉄砲で狙い撃ちできるように設計しているんです。
 

ハイレベルな武田の築城術

――築城に関しては、徳川よりも武田のほうが一日の長があったということでしょうか。

戸塚:そうですね。戦略的な縄張りを設計するノウハウに関しては、武田が一歩先を行っていたと思います。
例えば島田市にある諏訪原城は、巨大な丸馬出は武田方によって築かれたものですが、調査の結果、徳川方が改修して大きくしていることがわかってきています。徳川家康が武田信玄・勝頼との戦いを通じて、ハイレベルな築城術を自軍の城に取り入れていったんだと思います。
ただ、高天神城に関しては、まだ解明できてない謎もありまして……。

――と、いいますと?

戸塚:そもそも高天神城は「一城別郭」といって、東峰と西峰がそれぞれ独立した曲輪郡で構成されています。ただ、先程言ったように西峰にはかなり技巧的な堀切や土塁が施されているのに対して、東峰にはほとんどそういった防御の工夫がないんですよ。確かに傾斜が緩やかな西峰に比べれば安全度は高いので、何もする必要がないといえばないのかもしれませんが。

――確かに縄張図を見ても、東峰には堀がほとんどありませんね。

戸塚:本丸がある東峰は居住空間で、戦う場所ではないとしても極端ですよね。もしかしたら、現代の我々にはわからない、何か別な意味があったのかもしれません。みなさんもぜひこのパンフレットを読んでいただいて(笑)、その辺りのことを考察してみるのも面白いと思います。

高天神城の縄張り。堀の跡(水色の部分)が西峰に集中している/戸塚さん提供


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◆戸塚和美さん
1961年生まれ。明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。専門は中近世の城郭と墓。掛川市教育委員会社会教育課文化財係、図書館、二の丸美術館などを経て現在は掛川市観光交流課調整官。著書(分担執筆)に「静岡県の山城を歩く」(サンライズ出版)、「静岡県の歩ける城70選」(静岡新聞社)など。

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