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静岡新聞出版部

【なにぶん歴史好きなもので】勝海舟と静岡の関係とは? 生誕200年の今こそ知りたい!伝記出版記念トーク【前編】



本県ゆかりの戦国武将や郷土の歴史に関心がある人に、静岡県の歴史をテーマにニッチな話題を提供する「なにぶん歴史好きなもので」(掲載記事はこちらから>>>

2023年は幕臣・勝海舟の生誕200年に当たることを記念し、静岡新聞社からエドワード・ウォレン・クラーク著『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』が発売されました。明治期のお雇い外国人が著した勝海舟の小伝が、なぜ今、翻訳されたのか。静岡市葵区にある書店「ひばりブックス」で開催された出版記念トークイベントの模様を前編と後編の2回に分けてお届けします。

聞き手/鈴木淳博(静岡新聞社編集局出版部)
イラスト/たたらなおき

◆『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』概要
わたしがこれほど勝を好ましく思うのは、おそらく誰よりも彼のことを理解しているからであろう――。明治初頭、静岡学問所で教鞭をとったアメリカ人教師・E.W.クラークは、日本滞在中に多大な支援を受けた勝海舟を敬愛し、その生涯を1冊の本にまとめた。知られざる勝の素顔と静岡への思いをつづった小伝を、原本に掲載された写真も含めて収録した初の完訳版。
https://www.at-s.com/book/article/kyodoshi/1353924.html

お雇い外国人クラークがつづった勝海舟の生涯

――本日は『勝安房(かつあわ)』の訳者代表の今野喜和人さん(静岡大学名誉教授)と、近世史・近代史研究者で本書にも歴史解説の寄稿をしていただいた岡村龍男さん(豊橋市図書館学芸員)を招いて、お話を伺いたいと思います。
まずは今野先生、本書について紹介していただけますか。

今野:この本は、明治初期に静岡学問所で教鞭をとったE.W.クラークが書いた勝海舟の伝記です。よく間違われるのですが、「少年よ大志を抱け」の言葉で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士とは別人で、差別化の意味で“静岡のクラーク”などとも呼ばれる人物です。

「勝安房」というのは、勝海舟の官職名・安房守(あわのかみ)にちなんだ呼び名ですね。原文は英語で書かれており、これまで自費出版などでは翻訳されたこともあるのですが、今回、原本の写真も含めて収録する完訳版として出版できました。翻訳は静岡市内の有志で作る顕彰実行委員会で行い、クラークの生涯や当時の時代背景などの解説も収録しています。

『勝安房』出版の経緯を語る訳者代表・今野喜和人さん

――どのような流れで出版に至ったのでしょうか。

今野:私の専門は比較文学文化なのですが、静岡におけるフランス学の伝統を調べる中で「静岡学問所」とクラークの存在を知りました。

静岡学問所は当時、日本最高峰の教育機関だったにもかかわらず、なぜか今はその存在がほとんど知られていないし、ましてやクラークは無名に留まっている。そのことを不思議に思い、今から2年前、クラークの来日150年記念のシンポジウムを開き、賛同者とともに顕彰事業実行委員会を立ち上げました。今回の翻訳もその活動の一環として行ったものです。

――静岡学問所とはどのような施設だったのですか?

今野:明治維新の直後、江戸から駿府へと移住した旧幕臣たちを教授陣として作られた学校です。建物は駿府城の元定番屋敷内(現在の地方合同庁舎付近)にありました。旧幕臣の中には学問に秀でた人が多かったため、当時トップクラスの教育が施されていたんですね。

そして、この学校にお雇い外国人として招かれたのが、当時22歳だったクラークです。この招聘を斡旋したのが勝海舟であり、来日後もクラークは彼の援助を受けて教育活動を行うことになります。

そもそも勝海舟はどんな人物?果たした役割とは?

――では、まず勝海舟についてお話しいただき、その後にクラークについて学んでいきたいと思います。そもそも勝海舟とはどんな人物なのか、岡村先生にお話いただけますか?

岡村:勝海舟は江戸の下級武士の生まれです。一応、旗本ですが、父親はほとんど無役、今でいう窓際族みたいな立場でほとんど仕事がなかったそうです。ただ、刀の目利きではあったようで、その刀をうまく転売して儲けるようなことをしていたそうです。

近世・近代史研究者の岡村龍男さん。『勝安房』にも寄稿

――決して高い身分ではなかったのですね。

岡村:はい。ただ、海舟は若くしてオランダ語を学んでいたため、これが後の出世の礎となりました。彼が30歳の時、ペリー提督率いる黒船が来航します。

混乱を極める幕府は、外国とどのように付き合うべきか、全国の藩や旗本からアイデアを募るんですね。多くの人々が「外国を打ち払え」という主張をする中、海舟は理路整然と海軍の必要性を述べたため、幕府の要職に取り立てられたのです。

その後、勝は新政府軍との折衝を行う立場となり、最終的には西郷隆盛との会見により江戸城無血開城を成し遂げます。ただ、その間、主君である徳川慶喜に何度もちゃぶ台返しのようなことをされ、かなりの苦労を強いられたようです。

――幕府崩壊後の勝海舟の役割は何だったのでしょう。

岡村:当時における勝海舟の立場は、言うなれば倒産が確定した大企業の総務部長。260年間、業界トップだった幕府が潰れることは確定し、新しく親会社になる明治政府に対して、どうすれば元社長や社員たちが少しでも有利な条件で働かせてもらえるかを考えなくてはいけなくなった。当然、徳川家の新しい領地が駿府に決まると、その調整も行うことになるわけです。

数万人が静岡へ移住、どうする海舟!

――受け入れる駿府側も相当混乱したでしょうね。

岡村:当時の駿府の人口は1万2000人ぐらいといわれています。そこに2~3万人の旧幕臣とその家族の移住が決まった。考えただけでも、大変なことは分かりますよね(笑)。

旧幕臣の移住が決まると、まず駿府の人々がやったのが「布団集め」だそうです。駿府だけじゃたりないから、藤枝辺りからも運んできました。住宅も駿府だけでは足りず、由比・蒲原ぐらいまでの地域で確保する必要がありました。この数万人の移住を成し遂げるのが、勝のミッションだったわけです。

――考えただけでも頭が痛くなる(笑)。勝自身は静岡のどの辺りに住んでいたんですか?

岡村:海舟は、駿府城の10kmほど北にある門屋村に屋敷を建てました。現在、建物は宝寿院という門屋の寺に移築されています。ただ、勝自身は静岡藩と明治政府のパイプ役として静岡と東京を行き来する身だったため、駿府城近くの鷹匠に住んでいました。

旧幕府のために奔走した勝海舟(国立国会図書館ウェブサイト)

茶畑開墾に金山・油田開発も!?

――静岡ではどんな仕事をしていたんでしょう。

岡村:静岡に移った勝は静岡藩と明治政府のパイプ役を務めました。明治新政府のトップである大久保利通は「これから藩の産業をどうしていくつもりか」と各藩に尋ねます。

勝は「静岡藩はお茶で勝負する」と提案書を出しました。実際、彼の日記を読み返すと、慶応3年、つまり幕府がまだ倒れていない段階で「横浜で駿河・遠江のお茶が売れているそうだ」と書いている。そういった情報を事前に持っていた勝は、仕事を失った幕臣たちに牧之原台地や三方原台地を開墾させて茶を作り、生産者には税金を免除する計画を立てました。製茶業を通じてお茶を広めていけば、静岡は豊かになると考えていたんですね。

――今に繋がる「お茶どころ静岡」を作り上げた人物なんですね。

岡村:一方、かたくななまでに養蚕を進めたのが同じく幕臣だった渋沢栄一です。渋沢の出身地は現在の埼玉県深谷市、養蚕が盛んだった地域でした。彼は小さい頃から養蚕が儲かることを知っていたため、静岡藩も養蚕に力を入れろと盛んに言っていたのです。

――なるほど。結果的には海舟に先見の明があったことになりますね。

岡村:ただ、海舟にも失敗が結構あります。その一つが梅ヶ島金山の開発です。戦国時代から江戸時代の前半まで、梅ヶ島では多くの金が算出されていましたが、次第に取れなくなっていました。そこで海舟は数百両を投資して、再開発に向けた調査を行ったのです。藩主・家達(いえさと)に梅ヶ島を視察させる計画も立てていたようですが、これは失敗したようです。

――いろいろ試行錯誤があったんでしょうね。

岡村:現在の島田市で偶然石油が取れたため、勝は油田開発にも乗り出しています。この油田はよく知られている相良油田とは違う油田です。これも産業化には至らなかったようですが、勝が静岡における人口問題・産業問題・教育問題を同時進行で取り組んでいたことはもっと知られていいと思います。

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クラーク先生が見た明治初頭の静岡は? 勝海舟伝記出版記念トーク【後編】

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◆今野喜和人さん
静岡大学名誉教授。東京大学人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専門は比較文学文化。リュファン『永遠なるカミーノ』(春風社、2020年)など、仏語・英語の翻訳書多数。

◆岡村龍男さん
豊橋市図書学芸員。駒澤大学人文科学研究科歴史学専攻博士後期課程単位取得退学。専攻は日本近世史。著書に『渋沢栄一と静岡 改革の軌跡をたどる』(静岡新聞社、2021年)がある。

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