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天下人 巧みな人材登用 【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】

大御所時代の駿府城下の町割りが記された「駿府古絵図」のプレート。本多隆成名誉教授が指さす先には、日本史にも登場する人物の名も見える=静岡市葵区
大御所時代の駿府城下の町割りが記された「駿府古絵図」のプレート。本多隆成名誉教授が指さす先には、日本史にも登場する人物の名も見える=静岡市葵区

【※2015年1月1日 静岡新聞朝刊掲載】
“かつての敵”にも活躍の場 民政充実、平和の礎築く-本多静大名誉教授が解説
  静岡市葵区の駿府城公園に昨年復元された坤櫓(ひつじさるやぐら)から堀を挟んだ一角に、そのプレートはあった。城下の町割りが一目で分かる「駿府古絵図」。県立中央図書館が所蔵する実物は、徳川家康が江戸から駿府に居城を移した1607年に作られたという。
  全国の金銀山を統括した大久保長安。外様大名ながら、家臣同様に信頼された藤堂高虎。現在の日銀静岡支店付近には、貨幣鋳造を担った豪商後藤庄三郎の名も見える。高校の日本史にも登場する人物たち。絵図を眺めていると、本多隆成名誉教授は「家康は人材を非常にうまく登用している」と一人うなずいた。
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  優れた人材登用―。それは青年期と大御所時代の組織の違いにも表れている。家康が三河を統一した青年期に作った組織は「三備(みつぞなえ)」の制。領国を東と西に分けて重臣の酒井忠次と石川家成(後に石川数正)にそれぞれ束ねさせ、家康自身は旗本を直轄するシステムだ。軍事色が強いこの制度に対し、大御所時代は組織部門が多様化して行政色が濃い。武士以外の人材も多く、幕府の安定化に心を砕いた様子が見て取れるという。
  出世するにつれ、組織の重心を巧みにシフトさせた家康。本多名誉教授はもう一つ、重要な側面を教えてくれた。それは、ライバルだった今川氏や武田氏、北条氏が滅亡した際、それぞれの旧臣を数多く家臣に組み入れたこと。「戦いに強いだけでは、世は治まらない。家康は新たな家臣に活躍の場を与えることで軍事だけでなく民政も充実させ、実力を高めていった」。本多名誉教授の言葉に、目からうろこが落ちる思いがした。
  かつての敵をも生かして能力を発揮させた家康の姿から、400年の時を超えて学べる部分はあるのか。その問いに本多名誉教授はかぶりを振った。現在と当時では時代が違う上、虚実入り交じって言い伝えられる家康の〝生涯〟を基に教訓を得ようとするのは、研究者としての立場を超えていると考えるからだ。ただ、天下統一の先鞭(せんべん)をつけた織田信長と比べて、最後にこう言い添えた。「信長は滅ぼした大名の旧臣、例えば武田氏旧臣の登用を許さなかった。もし、本能寺の変で死なずに統一を果たしたとしても、家康のように安定した平和な時代を築けただろうか」


家康公支えた多彩な顔ぶれ-自慢の忠臣、行政官、まちづくり名人…
photo01 十六将図(浜松市博物館蔵)
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 三河の大名から大御所へ上り詰めた徳川家康の周囲では、多彩な人材が天下取りを支えた。「天下は一人の天下にあらず。すなわち天下の天下なり」とは家康の遺訓。太平の世はその言葉通り、家臣をはじめとする多くの人々の努力で導かれた。
  家臣団で特に有名なのは酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の「徳川四天王」。中でも浜松市北区引佐町で生まれた井伊直政は、関ケ原合戦で真っ先に敵陣に攻め入るなど、知勇に優れた武将として知られる。家康の人質時代を共にした平岩親吉らを加えて「徳川十六神将」「二十将」などと呼ぶ場合もあり、家康は忠臣を自慢したと伝わる。
  将軍就任前後から、武芸に秀でた忠臣たちと入れ替わるように台頭したのは、政治にたけた新たな人材だ。本多正信・正純父子は代表的な行政官。僧侶の金地院崇伝と南光坊天海、儒学者林羅山も法令整備などで幕府の安定化に尽力した。
  まちづくりなどで才能を発揮した“名人”も多い。土肥金山(伊豆市)はじめ当時世界一の産出量を誇った国内の金山開発を担った大久保長安や、富士川や天竜川を開削して「水運の父」と呼ばれる豪商角倉了以は土木の専門家。街道整備に携わった彦坂元正も、東海道が横断する本県発展の隠れた功労者だ。こうした専門家は滅亡した戦国大名の旧臣や武士以外の出身者も多く、多彩な人材を求めた家康を評価する声につながっている。

家庭では〝太平〟ならず? 妻を殺害、長男は切腹
photo01 徳川家康の次男結城秀康が生まれた中村家住宅=浜松市西区雄踏町
  生涯に妻とした正室と側室は計17人、子どもは11男5女をもうけたとされる徳川家康。現代人から見れば驚くばかりだが、内実は妻や子との間で問題が相次いでいた。
  家康の最初の正室・築山殿は今川義元のめい。夫婦の間には長男の信康と長女の亀姫が生まれたが、後に築山殿は武田氏への内通を疑われて殺害、信康も切腹に追い込まれた。2人目の正室となった旭(朝日)姫は豊臣秀吉の妹で、天下取りを目指すライバル秀吉による政略結婚。このため、家康とは疎遠な関係だったと伝わる。
  信康以外にも、子どもにまつわるトラブルは多い。次男の結城秀康は築山殿の侍女お万との子だったため、浜松城から離れた中村家住宅(浜松市西区)で人目をはばかって生まれたといわれる。将軍職を継いだ三男秀忠は関ケ原合戦に遅刻する大失態。家臣の榊原康政による取りなしで、家康から何とか許されたとの逸話が残る。
  家康は最晩年も、謀反がうわさされた六男松平忠輝を改易する事態に直面した。世を太平に導いた大御所も、必ずしも家庭円満とはいかなかったようだ。
※年齢、肩書は当時

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