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静岡に恵み 繁栄の原点【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 東海道を照らす】

【※2015年11月21日 静岡新聞朝刊掲載】

展示品の蒲原古代塗の座卓(手前)と関所手形(中央)について語る志田威さん。「東海道は平和な社会と庶民の力で発展した」と語る=7日、静岡市清水区の志田邸
展示品の蒲原古代塗の座卓(手前)と関所手形(中央)について語る志田威さん。「東海道は平和な社会と庶民の力で発展した」と語る=7日、静岡市清水区の志田邸
十返舎一九の功績をたたえて設置された「弥次喜多像」。東海道中膝栗毛では県内の様子も描かれている=10月下旬、静岡市葵区
十返舎一九の功績をたたえて設置された「弥次喜多像」。東海道中膝栗毛では県内の様子も描かれている=10月下旬、静岡市葵区
展示品の蒲原古代塗の座卓(手前)と関所手形(中央)について語る志田威さん。「東海道は平和な社会と庶民の力で発展した」と語る=7日、静岡市清水区の志田邸
十返舎一九の功績をたたえて設置された「弥次喜多像」。東海道中膝栗毛では県内の様子も描かれている=10月下旬、静岡市葵区

 県内を東西に横断する東海道。徳川家康が関ケ原合戦(1600年)の直後に整備した街道は国内の最重要路として発展し、現在もなお、本県にさまざまな恵みをもたらしている。「家康公がいなければ、ここまでの静岡の発展はなかった」。静岡市清水区の蒲原宿にある国登録有形文化財「志田邸」館主の志田威さん(72)=東京都杉並区=は語る。旧宿場町を訪ねると、東海道に支えられた“静岡の原点”が見えてきた。


「平和」と「庶民」両輪 蒲原宿「志田邸」探訪
  江戸時代にみそやしょうゆの醸造業を営んでいた商家で、現在は東海道町民生活歴史館として公開されている志田邸。母屋に入ると、二つの展示品に目が止まった。一つは漆塗りの見事な彫刻が施された蒲原古代塗の座卓。江戸末期に奥州白河から流れ着いた職人が始め、明治期は米国にも輸出されたという。もう一つは関所手形。当時のパスポートだ。
  「蒲原古代塗は平和な時代になって東海道の往来が盛んになり、この地に新たな技術が伝わったことを示している」と志田さん。手形にも平和の痕跡が見えると語る。「男性グループの場合は代表者が1枚持てば良く、最後はそれすら必需品ではなくなるほど、なし崩しになった。平和ならではの現象で、だからこそ、活発な経済活動が生まれ、東海道は繁栄したのです」
  だが、家康が東海道を整備した当初の目的は違っていた。戦乱がようやく収まりかけたこのころはまだ、西国を監視する必要があった。東海道の整備は、沿道の宿駅から宿駅へとリレー形式で情報を受け継ぎ、江戸へ迅速に伝えるためだった。
  様相が変わったのは幕府が安定してから。数々の記録に、家康が没して34年後の1650年に最初の伊勢参りブームが起こり、東海道に旅人が押し寄せたとある。往来が盛んになると、宿場の宿泊施設や茶屋がにぎわうのは当たり前。周辺から移住者も増えて町の規模は膨らんだ。「特に県内は宿場が22カ所もあり、そこを中心に市街地が形成された。東海道の発展には、平和と庶民の力の2要素が不可欠だったことが分かる」。その説明に何度もうなずいた。
  ただ、街道から幕府公用の意味合いが薄れた結果、誤解も生じたという。実は、東海道には京都の手前で枝分かれし、淀や守口など4宿を経由する“大坂ルート”もあり、正しい宿場数は「五十七次」。なのに、五十三次の認識が一般化したのは、志田さんによると浮世絵が原因らしい。「京都を終点と描いた方が大衆受けする。だから、その先は省かれた」。庶民の力が一部ルートの存在を忘れさせるなんて―。何とも皮肉な話ではないか。
  東海道は国道1号や東名高速道、東海道新幹線などに形を変え、現在も県内に恩恵をもたらしている。「だからこそ、静岡の繁栄の原点がどこにあるのか見詰め直してほしい。歴史に感謝する気持ちを忘れないで」。志田さんとの別れ際の言葉が胸に響いた。
相次いだ地震、津波 宿場全体が内陸移転も
photo01  東海道を基盤に発展した県内。しかし、265年続いた江戸時代を振り返ると、その歴史は自然災害との戦いでもあった。中には宿場全体が内陸へと移転したケースも。被災するたびにたくましく復興に立ち上がった先人の苦労がしのばれる。
  吉原(富士市)と新居(湖西市)は現在地に宿場が落ち着くまで、江戸期を通して2度も移転している。原因は地震や津波、高潮など。特に新居宿はたびたび水害をもたらす遠州灘の荒々しさから、かつて地名は「荒井」の字が当てられ、宝永地震(1707年)による津波では新居関所が全壊したほか、805戸あった家屋のうち241戸が流出、107戸が損壊したとの記録が残る。
  蒲原(静岡市清水区)や白須賀(湖西市)も同様の理由で内陸部や高台に宿場を移したと伝わり、被災状況を記した古文書は各地で確認できる。県はこうした記録などを基に推定した震度や津波浸水域を公開していて、過去の災害から防災意識の大切さを学び取ってもらうよう県民に呼び掛けている。
名物、暮らし紹介 弥次喜多 県内でも珍道中 「東海道中膝栗毛」(静岡出身・十返舎一九著)
  江戸時代の大ベストセラー「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」。著者の十返舎一九(1765~1831年)は現在の静岡市葵区出身で、国内で初めて文筆業で自活した職業作家とされる。主人公の弥次郎兵衛と喜多八が巻き起こす珍道中には現在と変わらない人間模様が描かれる一方、県内各地の名物も紹介されている。
  箱根を越えて三島宿に到着した弥次さんと喜多さん。途中で出会った男と意気投合して同宿したと思いきや、実は男は盗っ人。旅費をまんまと盗まれてしまう。丸子宿では、とろろ汁で腹ごしらえしようと立ち寄った茶屋で、店の夫婦が辺りにとろろをぶちまけ、足を滑らせながら大げんか。浜松で泊まった宿でも、深夜に取り込み忘れた洗濯物を幽霊と見間違えて腰を抜かすなど、ドタバタ劇を繰り広げる。
  膝栗毛には駿府の安倍川餅や、米をクチナシで黄色く染めた藤枝の染飯、新居で舌鼓を打った浜名湖のウナギなど、現代に通じる名物もめじろ押し。駿府十返舎一九研究会の大畑緑郎会長(71)は「東海道を題材にした作品は、宿場町でもあった駿府出身の一九にしか書けなかったと思う。その功績を長くたたえたい」と語る。
※年齢、肩書は当時  

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