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太平の世に真の豊かさ【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 暮らしを照らす】

江戸時代のたたずまいを残す横須賀。間口が狭く、奥に細長い「ウナギの寝床」と呼ばれる町家が続く=13日、掛川市横須賀
江戸時代のたたずまいを残す横須賀。間口が狭く、奥に細長い「ウナギの寝床」と呼ばれる町家が続く=13日、掛川市横須賀
自然との調和が図られた町家の仕掛けを紹介する鈴木武史さん。はめ殺しの障子窓を外して格子状の飾り窓が現れると、たちまち通気が良くなった=2日、掛川市横須賀
自然との調和が図られた町家の仕掛けを紹介する鈴木武史さん。はめ殺しの障子窓を外して格子状の飾り窓が現れると、たちまち通気が良くなった=2日、掛川市横須賀
江戸時代のたたずまいを残す横須賀。間口が狭く、奥に細長い「ウナギの寝床」と呼ばれる町家が続く=13日、掛川市横須賀
自然との調和が図られた町家の仕掛けを紹介する鈴木武史さん。はめ殺しの障子窓を外して格子状の飾り窓が現れると、たちまち通気が良くなった=2日、掛川市横須賀

【※2015年7月18日 静岡新聞朝刊掲載】
 太平の世が続いた江戸時代は、庶民の生活が向上して文化が花開いた一方、自然との調和が図られた理想的なエコ社会だったといわれる。右肩上がりの経済成長が過去のものになり、東日本大震災などで人々の価値観が揺らぎつつある昨今、その暮らしを再評価する声は多い。城下町のたたずまいを残す掛川市横須賀地区は、当時の生活スタイルをうかがい知ることができる場所。古民家や町並みの随所に先人の知恵が現在も息づく。
城下町の面影残す掛川・横須賀 自然と調和 エコな住居
  江戸時代、横須賀藩3万5千石の城下町として栄えた横須賀。軒を連ねた町家が往時をしのばせる。「この家は『ウナギの寝床』。自然との調和が図られている」と話すのは築114年の町家で陶器店を営む鈴木武史さん(57)。町おこし団体「遠州横須賀倶楽部」の大番頭でもある。
  店は間口4間半(約8メートル)に対し、奥行きは18間(約32メートル)。細長い造りはまさに、ウナギのすみかを思わせ、かつては各地の宿場町などでもみられた。なぜ、こんな構造なのか。考えあぐねていると、鈴木さんが笑った。「この家は冷房いらず。ほら、風が心地いいでしょう」
  家の真ん中に一直線に設けられた通路は家族ばかりでなく、風が吹き抜ける通り道。店舗部分は土間だから、足元も涼しい。熱がこもりやすい2階にも工夫がある。何の変哲もないように見えたはめ殺しの障子窓。鈴木さんが取り外すと、格子状の飾り窓が現れた。その瞬間、ふわりとさわやかな風。これだけの作業で、夏を快適に過ごせる部屋に様変わりした。
  採光も考慮されている。細長い家は普通、奥の部屋へ行くほど日光が入らない。その問題を解消しているのが吹き抜けの小さな中庭。自然光を巧みに取り入れ、照明に頼らなくても十分明るい。鈴木さんは言う。「江戸時代には、自然環境にあらがうのではなく、上手に利用する社会があった。現代と発想が異なる」
  エコで持続可能な地域を守るのに、コミュニティーが果たした力も大きい。町の中心にある三熊野神社。参道脇に古井戸が残る。かつて住民が“井戸端会議”を開き、人間関係を深めた場所だ。「現代人はプライバシーがないからと、近所付き合いを敬遠しがち。でも、何でも助け合い、融通し合える関係があるからこそ、無駄な個人消費が少なくて済み、精神的にも穏やかに暮らせるのでは」。鈴木さんは指摘する。
  横須賀の人々が地域コミュニティーの大切さに気付いたきっかけがある。30年ほど前に持ち上がった再開発計画。バブル絶頂期、全国各地で古い町並みが壊され、大規模店舗やマンションが次々と建てられる中、住民は「開発ノー」を選んだ。反対の先頭に立ったのは鈴木さんらだった。「あのころは開発を拒むなんて、あり得ないと外部から批判された。でも、今になってみると、選択は正しかったと思う」。昔ながらの生活を守り抜いた町が、豊かさの意味を問い掛けている。
外国人が見た静岡の民 礼儀正しく、きれい好き
 鎖国体制だった江戸時代、日本を訪れた数少ない外国人は“閉ざされた国”を母国に紹介しようと、庶民の姿を日記に書き残した。その中には県内に関する記述も見られる。「礼儀正しくて清潔好き」―。日記に描かれた静岡の人々の様子から、現代にも通じる日本人のイメージが立ち現れる。
  「駿府の少年は礼儀正しく、教育が行き届いている」と好印象を持ったのは、「江戸参府旅行日記」を著した長崎・出島のオランダ商館付医師ケンペル。1691年3月、江戸へ向かう際に駿府を通過し、店がずらりと並ぶ城下町の繁栄ぶりをつづった。前日の掛川通過時には町の半分を焼く大火事に遭遇したとの記載もある。
  幕末の1856年に下田へ降り立った米国総領事ハリスは人々の清潔さに驚いた。当時の下田は2年前に発生した安政東海地震で壊滅的な被害を受け、町は荒廃したまま。しかし、ハリスは「日本滞在記」の中で「住民の身なりはさっぱりしていて態度も丁寧。不潔さというものが少しも見られない」と感激し、下田奉行と初会談した後日の記述では「日本人は優秀」とも述べている。
近代化支えた教育熱 高い教養 娯楽に和算も
 江戸時代は各地に藩校や寺子屋が建てられて教育熱が高まり、幕末期の識字率は武士でほぼ100%、庶民層でも男子の半数近くが読み書きできるなど、世界的にもずばぬけていたといわれる。磐田市鎌田の医王寺には、当時の教養の高さを物語る市指定有形文化財の「和算額」がある。
  和算額は勉学が向上したことに感謝して寺社に納められた木製の額。江戸中期から全国で盛んに奉納され、額には自身が解いた算術の問題や図形、解法などが記されている。算術が当時、娯楽として庶民の間にも広く浸透していたことを示す資料でもある。
  医王寺には1779年と1856年に奉納された2枚が残り、いずれも連立方程式やさまざまな定理を駆使しなければ解けない、現在の高校数学レベルの難易度。市教育委員会文化財課は「江戸時代は社会が平和で、人々が勉学に打ち込める環境にあった。明治期に日本が近代化できたのも、江戸時代の教養の高さがあったからこそ」と指摘する。
※年齢、肩書は当時

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