大御所の遺産探しの記事一覧
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天下人 巧みな人材登用 【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2015年1月1日 静岡新聞朝刊掲載】 “かつての敵”にも活躍の場 民政充実、平和の礎築く-本多静大名誉教授が解説 静岡市葵区の駿府城公園に昨年復元された坤櫓(ひつじさるやぐら)から堀を挟んだ一角に、そのプレートはあった。城下の町割りが一目で分かる「駿府古絵図」。県立中央図書館が所蔵する実物は、徳川家康が江戸から駿府に居城を移した1607年に作られたという。 全国の金銀山を統括した大久保長安。外様大名ながら、家臣同様に信頼された藤堂高虎。現在の日銀静岡支店付近には、貨幣鋳造を担った豪商後藤庄三郎の名も見える。高校の日本史にも登場する人物
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天下人が築いた理想都市【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 駿府城下町を照らす】
【※2014年5月27日 静岡新聞朝刊掲載】 江戸幕府を開き、約260年間に及ぶ太平の世を築いた徳川家康。来年の顕彰400年記念事業を控え、県内では偉業をたたえるイベントなどが既に始まっている。特に静岡市は、家康が生涯で最も長い27年間を過ごし、大御所政治を行ったゆかりの地。観光ボランティアガイド「駿府ウエイブ」会長の川崎勝彦さん(72)と駿府城下をたどると、まちの発展に心を砕いた天下人の姿が見えてきた。 町自体が平和の象徴 出発地点は駿府城公園に復元された東御門と巽櫓[たつみやぐら]。門の天井を眺める。太い梁[はり]に驚いた。「直径1・5メートルで、1本数千万円と聞きます。
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静岡に恵み 繁栄の原点【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 東海道を照らす】
【※2015年11月21日 静岡新聞朝刊掲載】 県内を東西に横断する東海道。徳川家康が関ケ原合戦(1600年)の直後に整備した街道は国内の最重要路として発展し、現在もなお、本県にさまざまな恵みをもたらしている。「家康公がいなければ、ここまでの静岡の発展はなかった」。静岡市清水区の蒲原宿にある国登録有形文化財「志田邸」館主の志田威さん(72)=東京都杉並区=は語る。旧宿場町を訪ねると、東海道に支えられた“静岡の原点”が見えてきた。 「平和」と「庶民」両輪 蒲原宿「志田邸」探訪 江戸時代にみそやしょうゆの醸造業を営んでいた商家で、現在は東海道町民生活歴史
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太平の世に真の豊かさ【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 暮らしを照らす】
【※2015年7月18日 静岡新聞朝刊掲載】 太平の世が続いた江戸時代は、庶民の生活が向上して文化が花開いた一方、自然との調和が図られた理想的なエコ社会だったといわれる。右肩上がりの経済成長が過去のものになり、東日本大震災などで人々の価値観が揺らぎつつある昨今、その暮らしを再評価する声は多い。城下町のたたずまいを残す掛川市横須賀地区は、当時の生活スタイルをうかがい知ることができる場所。古民家や町並みの随所に先人の知恵が現在も息づく。 城下町の面影残す掛川・横須賀 自然と調和 エコな住居 江戸時代、横須賀藩3万5千石の城下町として栄えた横須賀。軒を連ねた町家が往時をしのばせる。「
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天下人の長寿 粗食に源 【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 食を照らす】
【※2015年12月23日 静岡新聞朝刊掲載】 平均寿命が40歳に満たなかったとされる戦乱の時代、75歳まで生きた徳川家康は驚異的な長寿で知られる。粗食を心掛け、「長寿こそ勝ち残りの源」と語ったという大御所。幕府の基盤を固め、世を太平に導いたのは健康長寿のおかげと専門家の評価は今なお高い。家康の食事の再現に取り組む郷土史家成沢政江さん(68)=静岡市駿河区小坂=もその一人。1年10カ月にわたった本紙連載「大御所の遺産探し」の最後に、天下人の健康法を探った。 再現料理 膳にこもる平和への苦労 古文書などを基に徳川家康の食事を再現している成沢政江さん。野菜中心で「質素だが、栄養バランス満点」と
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久能山東照宮 人生の教訓を得る聖地【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす①】
【※2014年2月22日 静岡新聞朝刊掲載】 江戸幕府を開き、泰平の世を築いた徳川家康。没後400年を迎える2015年に合わせ、家康が生涯の大半を過ごした県内では多くの顕彰事業が計画されている。郷土の偉人から私たちは何を学べるのか。各地に伝わる家康の足跡を訪ねる。 曲がりくねった1159段の石段が、偉大な先人の遺訓を思い出させた。「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし」―。徳川家康をまつる静岡市駿河区根古屋の久能山東照宮。社殿に着くと真冬にもかかわらず、額に汗がにじんだ。 「私も日々、同じ言葉を連想して参道を登るんです。この場所を埋葬地に選んだのは、後世に教訓を伝え
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臨済寺 生きる原点、人質時代に【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす②】
【※2014年3月1日 静岡新聞朝刊掲載】 8歳から12年間も駿府で人質生活を送った徳川家康。静岡市葵区大岩町の臨済寺には、家康が学んだと伝わる「手習いの間」がある。小説やドラマで描かれるように、家康はここで不幸な少年時代を過ごしたのか。同寺の阿部宗徹住職(66)に尋ねると、意外な答えが返ってきた。「私は違うと思う」。阿部住職は後の人生に大きな影響を与えた師匠の名前を挙げた。 太原雪斎。今川義元の軍師を務め、大大名へ押し上げた人物だ。家康は超一流の師匠に見込まれ、期待を受けながら育ったという。阿部住職は「人質の家康にとって、明日も生きられる保証はない。だからこそ、今を生き抜く
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浜松城 苦楽ともにした出世城【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす③】
【※2014年3月8日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康が29~45歳の“働き盛り”を過ごし、天下取りへの足掛かりをつくった浜松市中区の浜松城。完成当時は天守も石垣もない、土塁と堀に囲まれた土造りの城だった。 浜松城整備専門委員の神谷昌志さん(85)は「入城時(1570年)はわずか2カ国を領有するだけの大名。群雄割拠の世の中、大きな希望を持ってこの地にやって来たはず」と、若き日の家康に思いをはせる。 浜松城で過ごした17年間は戦いに明け暮れた。姉川、三方ケ原、長篠、小牧・長久手の合戦。織田信長に武田との内通を疑われ、正室築山御前と長男信康を死
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山住神社 敵から命救ったお犬様【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす④】
【※2014年3月15日 静岡新聞朝刊掲載】 浜松市天竜区水窪町にある標高1107メートルの山住峠。麓との気温差が約8度にも及ぶ峠に鎮座する山住神社の入り口に、神の使いとして一対のお犬様の像が立っている。3月初旬の小雪が舞う午後、神社の鎌倉秀雄宮司(85)が話してくれた。「お犬様は家康の命の大恩人だわい」 30歳を超えて間もない家康が、数少ない負け戦を経験した1573年の三方ケ原の合戦。武田信玄の攻勢に防戦一方となった家康は山住神社まで逃げたとされる。敵軍が神社に迫るやいなや、空は雲に覆われ「うぉーうぉー」と山犬のほえる声が地鳴りのように響き渡った。肝をつぶした敵軍は退散し、
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浜松八幡宮 土台見直し復活した楠【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑤】
【※2014年3月29日 静岡新聞朝刊掲載】 樹齢千年を超す浜松八幡宮のクスノキには、1573年の三方ケ原の合戦で敗れた徳川家康が幹のうろ(空洞)に隠れて難を逃れたという伝説がある。周囲に雲が立ちこめ、武田軍の目をくらませたことから、「雲立の楠(くす)」の名が付いたとされる。一緒に隠れた白馬の尾が見えると教えてくれた農民に、家康が後日、白尾姓を与えたとの伝承も。敗走中の家康にまつわるエピソードは数多い。 小和田哲男静岡大名誉教授は「8千人の家臣が浜松城に逃げ帰った。後世、家来から主君に置き換わった話もあるはず。影武者がいた可能性も」と推論する。家康は敗戦で家臣の1割を失った。小和田名誉教
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一言坂の戦い 天下取りを支えた武将【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑥】
【※2014年4月5日 静岡新聞朝刊掲載】 磐田市一言の国道1号沿いに「一言坂の戦跡」との碑が立つ。大型車両が行き交い、周辺は住宅や畑などのどかな風景が広がる。かつてここで合戦が繰り広げられたと想像するのは難しい。徳川家康を支えた「徳川四天王」の一人、本多忠勝(通称・平八郎)はこの「一言坂の戦い」で名声を高めた。 1572年、忠勝は家康の命を受けて、武田信玄軍の偵察に向かった。武田軍の予想を超える布陣に退却したが、途中の一言坂で追いつかれ一戦を交えた。殿(しんがり)を務めた忠勝は火を放って敵軍の進攻を食い止めたり、「蜻蛉(トンボ)切」と呼ばれる槍(やり)で応戦したりして、味方を一騎も欠け
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三方ケ原の合戦 信義を重んじた大敗北【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑦】
【※2014年4月12日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康の生涯で最大の負け戦、三方ケ原の合戦。家康の手勢は織田信長の援軍を含め1万1千、対する武田信玄の軍勢は2万5千。家康はなぜ、2倍超の相手に挑んだのか。 郷土史家で龍潭寺(浜松市北区引佐町)の前住職武藤全裕さん(81)は、家康が井伊谷(同町付近)の地を重要視したためと考える。井伊谷は、家康の遠州侵攻を手助けした3武将「井伊谷3人衆」に褒美として与えられていたが、合戦の2カ月前に武田軍の手に落ちていた。武藤さんは「信義を重んじ、与えた土地を守る姿勢を見せた」とみる。 歴史学者の故・高柳光寿の「三方原の戦」によると、家康軍は祝田の坂を下る
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酒井之太鼓 窮地救った警鼓の響き【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑧】
【※2014年4月19日 静岡新聞朝刊掲載】 現存する日本最古の木造擬洋風小学校舎、旧見付学校(磐田市見付)の1階にある「酒井之太鼓」。1573年の三方ケ原の合戦で、徳川家康の窮地を救ったと伝わる。 武田信玄軍に大敗した家康は浜松城へ逃げ帰った。勝利に乗じた武田軍が城門近くまで迫る中、徳川家重臣の酒井忠次は突然、やぐら門の警鼓を力いっぱい打ち鳴らした。その響きに武田方が「何か策略があるに違いない」と急ぎ軍を退かせ、家康は辛うじて城を守りきった。この警鼓が後に「酒井之太鼓」と呼ばれるようになったとされる。 太鼓は1871年の浜松藩廃止後、見付町民の所有に。75年の校舎落成時に同校に贈られ
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諏訪原城跡 高天神奪回の重要拠点【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑨】
【※2014年4月26日 静岡新聞朝刊掲載】 静岡空港から車で10分ほど一面の茶畑の中を走ると、国指定史跡「諏訪原城跡」に着く。遠江と駿河の国境に位置する諏訪原城は、もとは武田氏の築城でありながら、徳川家康が武田氏攻めの拠点にした重要な山城だ。 1575年、長篠の戦いで織田信長と共に武田勝頼を破った家康が入城した。家康はこの城を拠点に81年、武田軍から高天神城(掛川市)を奪回、一気に勝頼を追い込んだ。82年、武田氏は滅亡する。 城跡には実利を好んだ家康ならではの実戦的な改修跡が数多く残る。島田市は家康が普請した城門や堀などの史跡整備を進めている。市文化課の萩原佳保里学芸員は「当時の高い
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二俣城跡 若き信康切腹 悲劇の地【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑩】
【※2014年5月3日 静岡新聞朝刊掲載】 天竜川と二俣川に挟まれ、水利に恵まれた二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、徳川家康の長男信康が21歳の若さで切腹した悲劇の地として知られる。嫡男であった信康がなぜ自刃しなければならなかったのか。事件の背景には諸説ある。 「徳川家の派閥抗争により、家康自身が切腹を命じた説が近年は有力」と市立内山真龍資料館の坪井俊三さん(64)は唱える。織田信長が政権を握っていた時代、家康は徳川家内の勢力を完全には掌握していなかったとされる。坪井さんは「浜松城派の家康と岡崎城派に担がれた信康の対立が原因」と分析する。 家康の正室築山御前と信康が武田氏に内通していると
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高天神城跡 人質時代の雪辱果たす【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑪】
【※2014年5月10日 静岡新聞朝刊掲載】 遠州東部の最重要拠点だった高天神城(掛川市上土方)は、徳川家康が武田軍と攻防を繰り広げた激戦地。遠州灘を見下ろす城跡に今も武田軍が兵士を閉じこめていた岩穴などの遺構が残り、学芸員として調査に携わってきた戸塚和美さん(52)は「戦いのはざまに人間ドラマがあった」と思いをはせる。 織田信長と連合し武田勝頼を圧倒した長篠の戦いから5年後の1580年、家康は同城に立てこもる武田方を攻め立てた。武者奉行として徳川軍に対した孕石元泰は、生け捕りになった武田方で唯一、切腹を命じられた。今川氏の人質だった当時の家康への“嫌がらせ”が原
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可睡斎 居眠りも許す信頼関係【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑫】
【※2014年5月17日 静岡新聞朝刊掲載】 その寺にユニークな名前が付いたきっかけは1579年のこと。徳川家康は後に11代目住職(斎主)となる仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚を浜松城に招いた。 今川家の人質だった竹千代(家康の幼名)を助け、駿河から岡崎に逃がしたとされる等膳は、その席で居眠りしてしまう。だが、家康は「自分をかわいい子供のように思ってくれるからこそ、安心して居眠りもする」と喜び、「和尚、睡(ねむ)る可(べ)し」と語り掛けた。家康37歳、等膳61歳の時。以来、等膳は「可睡和尚」と呼ばれ、住職を任された袋井市久能の「東陽軒」は「可睡斎」に改名した。 家康はその後も等膳と寺を
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旗かけ石 神が宿る岩に戦勝祈願【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑬】
【※2014年5月24日 静岡新聞朝刊掲載】 焼津市石脇の石脇浅間神社前に並ぶ、しめ縄を張った直径4メートルほどの二つの岩。天下統一後の徳川家康がタカ狩りで高草山を訪れた際、この岩に旗を立て掛け、自身の力を示したことから「旗かけ石」の名が付いた。 家康と「旗かけ石」との出合いは1582年ごろ。武田軍のいる花沢城や田中城を攻める際、本陣としていた家臣・原川新三郎の家の門前にあったのがこの岩だった。古代から「神が宿る」とされてきた岩に戦勝を祈願し、見事に勝利を収めた家康。天下統一に向けた武運は、この地から開けていったのかもしれない。 家康はその後も原川家の支援を受け、2年後の豊臣軍との戦で
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熱海の湯 温泉の効能 全国に発信【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑭】
【※2014年5月31日 静岡新聞朝刊掲載】 熱海市街地の銀座通り商店街入り口を市役所方面へ歩くと、あたみ桜で有名な糸川に「御成橋」が架かっている。徳川家康が江戸幕府を開いた直後の1604年3月3日、息子の義直と頼宣を連れて訪れたのを記念して造られたとされる。 「健康オタク」で湯の効能にこだわった家康は湯治目的で7日間滞在した。家来を含む一行の本陣は湯前神社近くで名士が営む湯亭だったが、宿帳は残っていない。京都に向かう途中に立ち寄った“家族旅行”の詳細はあまり知られていない。 家康はその後も病気療養中の大名に湯を贈るなどして熱海温泉の名を発信し続けた。湯が入っ
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富士山本宮浅間大社 霊峰の加護意識し再建【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑮】
【※2014年6月7日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康が天下分け目の関ケ原の戦い(1600年)に勝利したのは日本史でも有名な話。一方で、家康が江戸幕府を開いた1年後の1604年、祈願成就のお礼として、富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社を造営した史実は、地元以外ではあまり知られていない。 家康と浅間大社の関係は、1582年にさかのぼる。家康は織田信長と連合し武田氏を滅ぼした帰途の4月、何者かに火を放たれて焼失した浅間大社に立ち寄ったとされる。6月に本能寺の変で信長がこの世を去った直後、2度にわたり来訪したとの記録も残る。 浅間大社は源氏や北条氏、武田氏など歴史に名をはせた武将が崇拝した。「家
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清見寺 朝鮮通信使の再開に尽力【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑯】
【※2014年6月14日 静岡新聞朝刊掲載】 眼下に駿河湾、正面には三保松原を見渡す高台にある静岡市清水区興津清見寺町の清見寺。江戸時代、朝鮮王朝から幕府に派遣された朝鮮通信使の貴重な資料が残る。豊臣秀吉の朝鮮出兵で冷え切っていた両国の関係を正常化し、通信使の来日を再開させたのが徳川家康だった。 1607年、江戸期の第1回通信使が大御所になった家康に謁見(えっけん)するため駿府城を訪れた。その際、使節をもてなしたのが家康とゆかりのある清見寺だった。 通信使は12回にわたって日本を訪れた。歴代の使者が宿泊、休息のため清見寺に立ち寄り、書を揮毫(きごう)した。今も境内の至る所に扁額(へんが
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中泉御殿 密談・軍略の拠点に利用【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑰】
【※2014年6月21日 静岡新聞朝刊掲載】 磐田市中泉に「御殿」と呼ばれる一帯がある。徳川家康が築いた中泉御殿が地名の由来。現在は商店や住宅が立ち面影はないが、当時は水堀で囲まれた約1万坪の広大な敷地に御殿があったという。 全国にあった将軍の休憩所の一つ。家康に仕えた中泉府八幡宮神主の秋鹿氏が献上した地に小さなとりでを設けたのが始まりで、1587年に完成した。 徳川家が東海道を往復する際の宿泊・休憩地というだけでなく、密談や軍略の拠点でもあった。1600年の関ケ原の合戦で、家康は前線勝利の報を受け、中泉御殿から出陣した。14年の大坂冬の陣では、泊まりがけで鷹(たか)狩りをしたとの記録
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泉頭城跡 人生最後に選んだ風景【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑱】
【※2014年6月28日 静岡新聞朝刊掲載】 国の天然記念物で、富士山の伏流水が湧き出る清水町の柿田川は、かつて「泉川」と呼ばれていた。戦国時代、泉川の水源地にあった「泉頭城」。徳川家康が晩年を過ごす場所に選んだと伝わる。 清水町史によると、泉頭城は戦国時代、北条氏政が築いたとされる。1590年、豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると、氏政は、豊臣軍の襲来に備えて分散している兵力を韮山城(伊豆の国市)、山中城(三島市)に集めるため、泉頭城を破壊して引き揚げたという。 1615年、この地を気に入った徳川家康は、隠居地にと城の再造営を命じた。しかし翌年に他界したため、城が再び築かれることはなかっ
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田中城 タイ天ぷら「太平の味」【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 足跡を照らす⑲】
【※2014年7月5日 静岡新聞朝刊掲載】 藤枝市田中の「史跡田中城下屋敷」に、かつて田中城本丸にあった高さ約11メートルの櫓(やぐら)がそびえる。徳川家康がタカ狩りで何度も足を運んだ田中城。1607年に駿府城に移った後、20回以上も訪れたという。 「市史だより」などによると16年1月、家康は田中城でタカ狩りを楽しみ、当時、関西で流行していたタイの天ぷらを機嫌よく食べた。その後、腹痛を起こし体調を崩したといわれる。同市郷土博物館の海野一徳学芸員は「家康にとって若いころからなじみのある身近な城。楽しくくつろぎ、食べ過ぎたのでは」と推測する。 健康や医薬に強い関心を持っていた家康は症状を自
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源応尼 平和の尊さ説いた祖母【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年7月26日 静岡新聞朝刊掲載】 太平の世を築いた徳川家康は多くの人々に支えられて天下取りを成し遂げた。彼らはどのような思いで家康に仕えたのか。同時代を生きた人物と家康の縁(えにし)を照らす。 徳川家康の生涯に最も影響を与えた人かもしれない。静岡市葵区鷹匠の華陽院(けよういん)は、家康の祖母源応尼(げんおうに)の墓所。「大御所として駿府に戻った家康が最初に行ったのは祖母の50回忌法要。いかに慕っていたか分かる」。堀田卓文住職(55)がうなずいた。 今川家の人質だった少年時代の家康に付き添った唯一の親族。文字通りの親代わりで、勉学に励ませたのも彼女と伝わる。そればかりでない。平
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安部大蔵 乱世に誠を貫いた武将【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年8月9日 静岡新聞朝刊掲載】 乱世に誠を貫いた武将の名が静岡市葵区井川に残る。「徳川家康の信頼は絶大だった」。安部大蔵ゆかりの竜泉院で、井川少年自然の家の所長も務めた元教員の曽根満さん(72)=同市駿河区石田=は言う。曽根さんは過疎が進む集落に通い、井川の歴史にも詳しい語り部だ。 大蔵が名声を高めたのは、今川家臣として臨んだ武田信玄との戦い。桶狭間で大敗した今川家から駿河を奪おうと侵攻した武田軍。家臣が相次ぎ主家を見限る中、大蔵は抗し続けた。信玄が仕掛けた一揆で浜松へ逃れた大蔵を、家康は「無双の忠士」とたたえた。 徳川家臣としても名をはせた。諏訪原城
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夏目吉信・本多忠真 三方原で主君守り戦死【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年8月16日 静岡新聞朝刊掲載】 浜松市中区鹿谷町の犀ケ崖(さいががけ)資料館近くに、家康の家臣、夏目吉信と本多忠真の名を刻んだ二つの石碑が立つ。2人は家康が武田軍に大敗した「三方原の戦い」で主君を守り、討ち死にした。浜松観光ボランティアガイドの会の森島堅一副会長(78)=同区助信町=は「この合戦は家康最大の負け戦。2人がいなければ後の江戸幕府もなかったかもしれない」と話す。 夏目は浜松城の留守役を任されていたが、「御身危うし」の知らせを聞きつけ、戦場へ駆け付けた。死を決意しようとする家康をいさめて馬やよろいを交換すると、身代わりとなって敵の前に立ちはだかり、家康が
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築山殿 夫により殺された正室【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年8月23日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康の正室にして「謀反人」の汚名を着せられた末、夫に殺された悲劇の女性、築山殿。「徳川家のタブーである彼女の記録は少なく、多くが謎に包まれたまま」。浜松市中区富塚町の浜松医療センター前。彼女の血で染まったとされる「太刀洗の池」の史跡碑を前に、市博物館の学芸員久野正博さん(52)は語る。 築山殿が暗殺された半月後、嫡男信康も自決を迫られ、この世を去った。織田信長と家康に対する謀反の画策の疑いを掛けられた母子は、信長から処罰を言い渡された。 天正7(1579)年8月29日、信長の命を拒めなかった家康は刺客を送り、浜松
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井伊直政 江戸幕府成立の立役者【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年8月30日 静岡新聞朝刊掲載】 15歳で小姓として徳川家康に仕え、大老6人を出した江戸幕府きっての譜代大名家の礎を築いた井伊直政。浜松市北区引佐町の龍潭寺(りょうたんじ)にひっそりと立つ墓の前で、同寺前住職の武藤全裕さん(81)は「幕府をつくるため最も貢献した武将」とたたえる。 その名を知らしめたのは家康と豊臣秀吉が激突した小牧・長久手の合戦。武田家滅亡後、遺臣らを中心に編成された朱色の武具の軍団を率い、先鋒(せんぽう)として武功を上げた。勇猛果敢な戦いぶりは「井伊の赤鬼」と恐れられた。 政治外交でも才を発揮した。本能寺の変直後、侵攻してきた北条家
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西郷の局 道半ばに早世、最愛の妻【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年9月6日 静岡新聞朝刊掲載】 多難な徳川家康の青年期を支えた女性がいる。2代将軍秀忠を産んだ側室西郷の局=さいごうのつぼね(お愛の方)=。墓所となった静岡市葵区常磐町の宝台院は江戸時代、10万石の格式を受けた全国屈指の大寺院だった。「家康がいかに愛していたか分かる」。宝台院の野上智徳住職(52)はそう話す。 愛された理由は慈悲深さにあったようだ。西郷の局自身が強度の近眼だったため、特に盲目の女性を慈しみ、寺の西側に屋敷を造って保護したと伝わる。「福祉」という言葉すらなかった時代、弱者をいたわる人柄を家臣も慕ったという。 だが、太平の世が訪れた時、最
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徳川信康 21歳で自刃、悲劇の嫡男【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年9月13日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康の長男として生まれながら、21歳の若さで自刃した悲劇の武将として知られる徳川信康。浜松市天竜区二俣町の清瀧寺に、ひっそりと眠る。 武田方への内通疑惑、徳川家内の勢力争い、家来の陰謀―など切腹の理由は諸説ある。「戦国時代、親兄弟の争いは決して珍しくない」と横江良正住職(76)は家康との確執の可能性を指摘する。 信康が二俣城で自害した後、家康が供養に訪れた際に清瀧寺と名付けたと伝わるが、確証はない。寺に墓石以外に信康にまつわる史料はなく、墓が建てられたのもはるか時代を経た百回忌の年という。「信康の人物像や家康との関
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小川孫三 譲られた領地に町の礎【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年9月20日 静岡新聞朝刊掲載】 本能寺の変(1582年)の混乱のさなか、徳川家康を救い、藤枝宿白子町の礎を築いたとされる小川孫三。その孫三が住み始めたと伝わるのが、白子名店街の一角にある小川眼科医院(藤枝市本町)付近だ。現在は小川家15代目に当たる眼科医小川淳さん(55)が開業している。 「家康を助けたお礼にもらったとされる領地。ふるさとの名前を付けて住みたかったはず」。白子名店街の土屋勉理事長(66)は孫三の心境に思いをはせる。土屋理事長らが中心となってまとめた冊子「藤枝白子町誕生物語」では、当時の商店街付近を「雑草の生い茂る寂しい場所」とつづっている。孫三が
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土屋忠直 見いだされた敵将遺児【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年10月4日 静岡新聞朝刊掲載】 織田軍の甲州征伐で武田軍が滅びた天目山の戦い。後年、徳川家康は鷹狩りで立ち寄った清見寺(静岡市清水区)で敵将の遺児を見いだし、秀忠の小姓に取り立てた。土屋忠直。「片手千人斬り」と呼ばれる壮絶な戦いが伝えられる土屋昌恒の嫡男だ。 清水区今泉の楞厳院(りょうごんいん)には、その忠直と母親が追っ手を逃れて同院に隠れたと、第6代住職が記した文書が残る。院を創建したのは今川氏の武将だった岡部貞綱。後年、武田氏に仕えて土屋姓を名乗り、昌恒を養子とした。第29代の有田知弘住職(54)は「(忠直らは)土屋家と院との縁や修行する環境を考え、ここを頼
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朝日姫 望まぬ再婚 兄の犠牲に【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年10月11日 静岡新聞朝刊掲載】 農民から関白へと駆け上がった豊臣秀吉。兄の天下取りのため、ライバル・徳川家康の2人目の正室とされた悲劇の女性が朝日姫(旭姫)だ。「本人は平凡な一生を望んでいたろうに…」。姫の墓がある静岡市葵区井宮町の瑞龍寺で、浅井宗芳住職(65)が同情を禁じ得ないといった様子でため息をついた。 話は朝日姫が嫁ぐ2年前、両雄が激突した小牧・長久手の戦いにさかのぼる。圧倒的な兵力を持ちながら、局地戦で敗北を重ねた秀吉。自身に服従しない家康に、さすがの天下人も手を焼いた。では、どうすれば―。 ひねり出した奇策は世間を仰天さ
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山内一豊 先見性示した小山評定【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年10月18日 静岡新聞朝刊掲載】 日本で初めて木造復元された掛川城の天守閣は、もともと山内一豊が豊臣秀吉の家臣として入城後に建造した。掛川城観光ボランティアの帯金徹雄さん(75)は「城下町の整備にも力を入れた先見性のある武将だった」と一豊を評価する。 一豊の眼力を象徴するのが関ケ原の戦いの直前に開かれた小山評定。徳川家康が上杉景勝を討伐するために訪れた下野国小山(現栃木県)で、石田三成の決起を知り軍議を開いた。秀吉の死後、家康に接近し遠征に同行していた一豊は三成を討つため、真っ先に掛川城の提供を申し出た。 「徳川の時代になるという確信があり、忠誠心
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渡辺織部 水軍を率いて繁栄築く【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年10月25日 静岡新聞朝刊掲載】 現在の松崎町役場がある宮内村で生まれた渡辺織部は、徳川家康配下の水軍で船手を務め、小牧・長久手の戦いなど数々の戦に出陣した。関ケ原の戦いで流罪となった西軍の宇喜多秀家を八丈島へ護送したことでも知られるが、地元の郷土史家近藤二郎さん(79)は「織部の功績は町民の記憶にほとんど残っていない」と話す。 織部は1592年、秀吉の朝鮮出兵で九州まで従軍したことから、褒美として宮内村の一部の支配を許される。関ケ原の戦いに出陣した後、1610年に76歳で病没。後に渡辺家の領地は没収され、旗本大久保家の支配地となった。 町役場近く
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大久保長安 幕府を支えた鉱山開発【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年11月1日 静岡新聞朝刊掲載】 成立間もない江戸幕府を財政面から支えたのは全国で積極的に進められた金採掘だった。中でも、佐渡と並び隆盛を誇ったのが土肥金山(伊豆市)。開発を主導したのは金山奉行の大久保長安だ。 長安は甲斐の武田氏に仕えた猿楽師の家の出身。家康に鉱山開発の才能を認められて登用され、各地の金山で腕を振るった。1606年(慶長11年)ごろ、伊豆金山奉行に任じられた。 当時の鉱山開発は出水が大きな課題だったが、長安は土肥金山に坑道掘削や水抜きの新技術を導入して問題を克服。金の産出量を大幅に増大させた。今は観光施設になっている同金山の勝呂淳主
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ウイリアム・アダムス(三浦按針) 人柄や見識見込まれる【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年11月8日 静岡新聞朝刊掲載】 苦難の航海を経て日本に着いた英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)を、徳川家康は江戸幕府の外交顧問として重用した。伊東按針会の杉本総一郎会長(78)は「ほとんど外交がない時代の外国人では破格の扱い。家康は按針の人柄や見識にほれ込んだのでは」と語る。 アダムスが航海長を務めるオランダ商船が、大分県臼杵市の海岸に漂着したのは関ケ原の戦い直前の1600年4月。家康は海賊船と疑い船員を一時投獄したが、やがて釈放。通訳や助言役としてアダムスを登用した。造船地だった伊東市の松川河口で、日本初の洋式帆船を建造するよう命じもした。
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原主水・ジュリアおたあ 純粋な信仰、弾圧対象に【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年11月15日 静岡新聞朝刊掲載】 晩年の徳川家康が行った政策の中で、キリシタンを弾圧した禁教令は今も評価が分かれる。その代表的犠牲者は原主水(もんど)とジュリアおたあだ。「当時は仕方がなかったのかも」。静岡市葵区城内町のカトリック静岡教会にある主水の銅像前で、そう語るのは同市在住の作家宗任雅子さん(65)。9年前、小説「苦いカリス」で主水を描いた。 家康の小姓を務めるなど、将来を嘱望された主水。朝鮮半島出身と伝わるおたあも、大御所お気に入りの侍女だった。だが、2人の運命は禁教令で一変する。 棄教を拒んだ主水は額に焼き印を押され、手の指と足の筋も切断
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芹沢将監 御殿場の礎築いた土豪【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 縁を照らす】
【※2014年11月29日 静岡新聞朝刊掲載】 「御殿場」の地名は、徳川家康が駿府と江戸を往来する際に泊まる御殿が建てられたことに由来する。大坂夏の陣が終わった1615年、幕府代官から御殿造営の命を受けたのが当地の土豪芹沢将監(しょうげん)だ。元御殿場市職員で市史編さんに携わった鎌野茂さん(66)は「農村だった御殿場が一躍、北駿の中心になった転機」と位置付ける。 御殿の敷地は東西約90メートル、南北約82メートル。現在、県立御殿場高と吾妻神社がある一帯に建てられていた。屋敷の中に川が流れ、石橋が架けられていたという。 御殿造営に伴い、幕府は将監に新たなまちづくり
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駿河竹千筋細工 指先が生み出す曲線美【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす①】
【※2015年4月1日 静岡新聞夕刊掲載】 静岡県内の伝統工芸品は江戸時代初期、駿府城築城や久能山東照宮、静岡浅間神社の造営で全国から集まった職人がその後も駿府にとどまって発展させるなど、徳川家康や将軍家とのゆかりが深い。地域の気候や風土に育まれ、受け継がれてきた匠(たくみ)の技がある。 竹ひごの束を、熱したこてに当てて力を加える。わずか2秒。辺りにうっすらと白い煙が立つ。こてから外された竹ひごは見事な曲線を描いていた。 駿河竹千筋細工の魅力は繊細で優雅な曲線美。「均一に曲げるところに熟練の技術がある」。この道68年の黒田英一さん(84)=静岡市葵区田町=は竹ひごを曲げる指
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駿河ひな人形 「人間らしさ」吹き込む【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす②】
【※2015年4月2日 静岡新聞夕刊掲載】 両腕を開いた人形の肩にヘラを当て、ゆっくりと手前に折り曲げる。肩の向きが定まったら、肘、手首も角度をつける。針金に木片で肉付けした芯に、厚く重ねた着物。ひな人形の姿を整えるのは、体重をかけながらの力作業だ。 殿と姫の内裏びなをはじめ、官女や仕丁に魂を込める人形師。「左京」3代目の望月和人さん(58)=静岡市葵区幸町=は、5月の見本市でお披露目する人形を製作中だ。「人間らしい座り方、着物の自然な膨らみが命」。子の健やかな成長を願うときに、感情移入しやすいたたずまいを意識する。 着物の色など、実際の着こなしと同じように流行
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藤枝桐箪笥 わずかな隙間も許さず【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす③】
【※2015年4月6日 静岡新聞夕刊掲載】 引き出しの出来具合を想像しながら、使い込んだかんなで桐(きり)材を削っていく。引き出しが本体に収まった時、前部の板がたんすのふたになるように仕上げる。大切な着物を守るのに、わずかな隙間からほこりや湿気が内部に入らないようにするためだ。 藤枝桐箪笥(きりたんす)は東北産の原木を仕入れて削り、はぎ合わせる伝統技法にこだわる。この道21年の職人横山浩史さん(51)=藤枝市本町=は「四季がはっきりした土地の木材は引き締まる」と説明する。注文を受けてから1カ月以上かけてすべて手作りで完成させる。 最近使い古したたんすの修理の注文
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駿河指物 精緻な接ぎ目、計算通り【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす④】
【※2015年4月8日 静岡新聞夕刊掲載】 徳川家によって造営された駿府城に久能山東照宮、静岡浅間神社。全国から集まった職人はその後も駿府にとどまり、伝統工芸品を生み出した。特に、くぎを使わずに木を組み上げて作る指物(さしもの)や豪華な漆工芸は技術力の高さを今に伝える。 蒸籠(せいろ)の枠を形作るヒノキの表面を、年季の入ったかんなが滑る。ひらりと舞い上がる木くずは紙より薄く、白熱電球の温かな光に照らされ透き通る。 駿河指物の神髄は接ぎ目だ。くぎを使わない留め接ぎ技法「雇(やとい)」により、蒸籠の接合部は精緻に仕上げられ、凸凹もぴたり。「緻密な計算が作品を生む。偶然はない」。
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駿河蒔絵 陰影描き出す指先の技【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑤】
【※2015年4月9日 静岡新聞夕刊掲載】 漆を含んだ面相筆が下絵の上をゆっくりと動く。親指の腹程度の花びら1枚を4~5分かけて薄く、平らになるように塗る。「地描きの丁寧さで仕上がりが変わる」と諸井治郎さん(81)=静岡市葵区三番町=。66年続ける作業は「何年やっても難しい」と目を凝らした。 金粉や銀粉が入った粉筒(ふんづつ)を指ではねるように動かすと、先端から出た粉がふわりと蒔(ま)き付く。指の力、蒔く箇所など計算された動きでぼかしを描き、花びらの形や影が徐々に浮かび上がった。 ネクタイピンから額絵まで、蒔絵を施す物の大きさや形はさまざま。花鳥風月、幾何など絵
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駿河漆器 深いつや 下地作りが命【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑥】
【※2015年4月10日 静岡新聞夕刊掲載】 刷毛(はけ)でよく練った漆は、トチノキの盆の内部に少しずつ染み込んでいく。“漆風呂”と呼ばれる部屋で時間をかけて乾かした後、表面に川砂をまいて下地を作る。そこに漆を塗り重ねる作業を繰り返し、約3カ月。ようやく作品が完成する。 「駿河漆器作りは急いでもどうにもならない。下地作りを丁寧にやると、出来上がりが変わる」。川砂を用いる「金剛石目塗」を受け継いだ3代目の鳥羽俊行さん(56)=静岡市駿河区=。職人の中では若手とされる鳥羽さんは、祖父から続く駿河漆器の技術を、現代風にアレンジしようと試行錯誤を重ねる。 &n
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焼津弓道具 ゆがみ調整 細心の注意【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑦】
【※2015年4月23日 静岡新聞夕刊掲載】 太平の世となった江戸時代、かつて戦場で使われた武器は独特の変化を遂げた。精神鍛錬のための弓道に、人々を楽しませる花火。のろしと同様の役割を果たした凧(たこ)は、子どもの成長を願う玩具になった。徳川家とゆかりの深い県内でも、武器の平和利用が根付いていった。 仕上げの作業は最も神経を使う瞬間だ。わずかなゆがみも許されない。まばたきを忘れるほど集中し、竹矢の向きや見る角度を少しずつ変えながら、一本一本入念に確認する。 この道46年の矢師・曽根宗次さん(64)=本名・成一=。曽根弓具店(焼津市)の小上がりで作業を行い、ゆがみの調整を終え
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手筒花火 十数秒の美 魂吹き込む【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑧】
【※2015年4月24日 静岡新聞夕刊掲載】 ゴザを幾重にも巻いたモウソウ竹を回転させながら、縄をらせん状に締め付けていく。何度も金づちでたたきながら、固く、隙間をつぶす。手筒の先から火柱が放たれるのは、わずか十数秒。その瞬間のために、男たちは魂を吹き込む。 湖西市新居町に江戸時代から伝わる手筒花火。男衆が次々と火柱を上げる「乱点(づ)け」は全国でも類がなく、辺りはたちまち“火の海”と化す。「やけどは体のあちこちにできる。花火野郎には勲章だよ」。手筒花火を出し続けて約30年の松山智次郎さん(48)は誇らしげだ。 頑丈に縄を巻くのは、暴発
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横須賀凧 骨組み絶妙なバランス【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑨】
【※2015年4月28日 静岡新聞夕刊掲載】 凧(たこ)紙に竹を当てて寸法を合わせ、小刀で少しずつ削っていく。上空で風を受け流せるよう竹の厚みを1ミリ単位で調整し、凧の骨に仕上げる。「少しでも薄くなると風で折れてしまう」。大事なのは程よい加減。明治時代から続く横須賀凧の老舗の4代目を継いだ柳瀬重三郎さん(67)=掛川市横須賀=は竹をしならせ、出来栄えを確認する。 横須賀凧の起源は戦国時代までさかのぼる。矛に似た形の「とんがり」や、徳川氏と武田氏の戦いを図柄で表した「巴(ともえ)」など20種類以上ある。骨組みには、風通しの良い場所で1年以上乾燥させた弾力性の高い竹を使う。 &n
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賤機焼 「鬼福」唯一無二の表情【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑩】
【※2015年5月25日 静岡新聞夕刊掲載】 戦国末期から江戸初期にかけて、朝鮮半島から伝わった技術によって急速に発達した陶芸。県内には徳川家の御用窯として珍重された焼き物がある。駿府城築城を機に製造が始まったとされる瓦も、やがて民家などに使われて普及していった。こうした技術は現在も受け継がれ、人々の暮らしを彩っている。 眼光鋭い鬼を返せば、思わず笑みを誘う福の顔が表れる。賤機焼窯元青島晴美さん(68)=静岡市葵区=がつくり出す器「鬼福」に同じ表情は一つもない。 浜松城で武田勢に囲まれた徳川家康が奇策で難を逃れた逸話に基づく。家臣が「鬼は外、福は内」と騒ぎ立て城門を開くと、
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志戸呂焼 粘土への絶妙な手加減【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑪】
【※2015年5月26日 静岡新聞夕刊掲載】 電動ろくろを回しながら、絶妙な手加減で粘土の塊を自在に操る。力は強すぎても弱すぎてもいけない。神経を集中させ、両手で挟んだ粘土に一定の圧をかけて均一な厚みにしていく。 安土桃山時代が始まりとされる島田市金谷地区の志戸呂焼。硬く、湿気を寄せ付けない性質と渋く深みのある茶褐色が特徴で、茶器を中心に親しまれてきた。徳川家康からは商売免許や伝馬の朱印状が授けられ、特別な保護を受けた。 材料は全て地元で調達。彦次窯5代目の丸山成己さん(49)=同市横岡=は「鉄分を多く含んだ良質な土と釉薬の原料が採れる土地が生んだ焼き物」と説明
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遠州鬼瓦 へらと毛筋棒で刻む鬼【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑫】
【※2015年5月27日 静岡新聞夕刊掲載】 金属製のへらと、日本髪を結うのに使うツゲの木の毛筋棒が、まだ軟らかい土の塊に鬼の顔を描き出す。鋭く切り込みを入れ、表面を平らにならす作業の繰り返し。しばらくすると、へらの先端をぺろりとひとなめ。「水に漬けるのが面倒。おやじは唇に土が付いてたよ」。鬼瓦一筋66年の名倉孝さん(81)=袋井市堀越=が照れくさそうにほほ笑む。 日本家屋の屋根で長年にわたり存在感を放ってきた鬼瓦。遠州地方は太田川沿岸などで良質な土が採れ、瓦の産地として発展した。名倉さんは江戸末期創業の「鬼秀」4代目。15歳で3代目の父に弟子入りし、伝統を受け継いだ。いつの
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駿河和染 走るはけ 素早く正確に【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑬】
【※2015年6月8日 静岡新聞夕刊掲載】 江戸時代に発展を遂げながら、明治期以降の近代化の流れを受けて衰退した工芸品は少なくない。そんな中、代々受け継がれてきた技術を応用することで、現在まで生き残った物がある。先人たちがさまざまな苦労を乗り越え、伝承してきた匠(たくみ)の技を、私たちも未来に伝えたい。 ピンと張ったしわ一つない白布に、染料をたっぷり含ませたはけを勢いよく走らせる。布はたちまち鮮やかな色にムラなく染まる。乾燥すると、藍や黒、朱など味わいある色合いに変化する。 この道40年の染職人、八木省二さん(60)は、静岡市葵区錦町で約140年続く八木染工所の4代目。長さ
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掛川手織葛布 素朴さ紡ぐ「おさ」の音【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑭】
【※2015年6月9日 静岡新聞夕刊掲載】 織機の踏み板を操る足の動きに合わせ、ピンと張られた縦糸が上下に分かれる。その間を葛(くず)つるの繊維でできた横糸が素早く通る。トン―。おさと呼ばれる部品を打つ音が響き、縦糸と横糸が組み合わされる。 昔ながらの手作業で生み出される掛川市の伝統工芸品「手織葛布」は、変わらぬ素朴な風合いが特徴。老舗の小崎葛布工芸=同市城下=で、ベテラン織り子の野中啓子さん(66)は「手と足の動きは体に染みついてますね」とほほ笑んだ。 江戸時代、城下町掛川は葛布産業とともに栄えた。「掛川藩は江戸に上る際、葛布でできた着物を持っていきPRしたと
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駿河塗下駄 卵殻や沈金、多様な技法【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 匠を照らす⑮】
【※2015年6月10日 静岡新聞夕刊掲載】 年季の入った作業台の上で、佐野成三郎さん(77)=静岡市葵区=が漆をたっぷり含んだはけを小気味良く動かす。下地を塗っただけの木目の透ける下駄(げた)が、つややかな黒色に染まっていく。 駿河塗下駄は、室町時代に始まり、江戸時代に発展した漆塗りの技術が、明治時代に下駄の装飾に取り入れられて花開いた。細かく砕いた卵の殻を、一つ一つ貼って模様を描く卵殻(らんかく)張りや、先端が丸い刀で模様を彫った後に金を塗り込む沈金などが今に伝わる。佐野さんはそれらの技法を20代で学んだ。 工房の傍らでは長女の佐藤仁美さん(37)=同区=が
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山田長政 活躍の場求めて異国へ【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす①】
【※2015年1月17日 静岡新聞朝刊掲載】 2015年は徳川家康の400回忌。大御所が太平の世を築いて以降、265年間にわたった徳川幕府の体制下では本県ゆかりの人々もさまざまな分野で活躍した。郷土が輩出した人物の業績と足跡を紹介し、家康亡き後の歴史を照らす。 徳川家康が駿府で大御所政治を行った最晩年、この地から遠くシャム(タイ)に渡り、六昆(リゴール)王へ上り詰めた男がいる。山田長政。出生地との説がある静岡市葵区富厚里には、地元住民が建てた供養塔がある。「乱世の終結で、長政は海外に活躍の場を求めるしかなかったのだろう」。富厚里山田長政史跡保存会の佐藤則夫会長(73)は語る。  
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古郡重高、重政、重年 治水や新田開発に尽力【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす②】
【※2015年1月24日 静岡新聞朝刊掲載】 雁(がん)が連なり飛ぶ様子に似ているとして名付けられた延長約2・7キロの雁(かりがね)堤。新田開発に力を入れた徳川幕府の施策に従い、古郡家親子3代の重高、重政、重年は1621年ごろから50年余の歳月をかけて富士川下流部左岸の治水に挑み、加島五千石の新田開発を成し遂げた。 日本三大急流河川の一つである富士川は、洪水のたび流路を変える暴れ川。「度重なる氾濫に加島一帯の農民は苦しめられ、開発は難工事だった」と駿河郷土史研究会の加藤昭夫会長(73)は語る。 古郡家18代当主の重高は、まず岩本山の西麓に水勢を弱める突堤を築く。
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徳川忠長 改易と自刃、兄の嫉妬か【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす③】
【※2015年1月31日 静岡新聞朝刊掲載】 一体、どんな罪があったというのか。徳川家康の死から18年後、孫で駿河55万石の城主徳川忠長が改易の上、自刃に追い込まれる大事件が起きた。兄は3代将軍家光。県内に今、忠長をしのばせる愛用品は静岡市清水区の清見寺にある弁当箱以外、皆無に等しい。歴史研究家の佐野明生さん(67)=同区興津井上町=は事件の真相を兄の陰謀と見る。 聡明(そうめい)で知られ、次期将軍が有力視された幼少期の忠長。しかし、家光の乳母春日局の策略で兄が後継に決まった瞬間から、悲劇は始まっていたのかもしれない。 駿府在城時の6年間に善政を施したという地域
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大庭源之丞、友野与右衛門 苦心の末、深良用水建設【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす④】
【※2015年2月7日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康の天下統一で平和が訪れた江戸初期。箱根山西麓の深良村(現在の裾野市深良)では水不足から米が収穫できず、住民は貧しい生活を強いられていた。村名主の大庭源之丞は山を越えた芦ノ湖から水を引くことを思い付く。 この深良用水の実現に向け頼ったのが、現在の横浜市一帯の新田開発に実績があり、駿府の出身とも伝わる友野与右衛門ら江戸商人。友野ら4人が「元締」として工事を取り仕切り、寛文6年(1666年)から4年をかけて完成させた。 新田開発を奨励した4代家綱の下で許可された民間事業だったが、1280メートルのトンネルを掘り抜く難
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由比正雪 浪人救済求めた軍学者【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑤】
【※2015年2月14日 静岡新聞朝刊掲載】 慶安4年(1651年)7月29日。3代将軍家光の死の直後、幕府転覆を狙う「慶安の変」が起きた。首謀者は駿府宮ケ崎(現静岡市葵区宮ケ崎町)の生まれとされる軍学者由比正雪。浪人や下級の旗本、御家人が江戸、京都、大阪、駿府の各所で同時に蜂起し、4代将軍家綱を拉致して久能山に立てこもる計画だった。しかし事前に露見し、正雪らは自決した。 同市葵区沓谷の菩提樹院に、正雪の首塚とされる石塔が立つ。同院の佐橋玄峰住職(63)は「当初は困窮する浪人を救済したいという純粋な気持ちだったのだろう。その目的が、途中で幕府転覆に変わってしまった」と推測する。
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白隠禅師 原を拠点に広く禅説く【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑥】
【※2015年2月21日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川5代将軍綱吉の時代、後に名僧と呼ばれる男が東海道原宿(現・沼津市原地区)に生まれた。臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師。原を拠点に禅の教えを広め、その名声は「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた。 白隠は1685年に原宿の長沢家で3男2女の末子として誕生した。幼少時代、母に連れて行かれた寺で説法を聞き、話に登場した地獄の光景が頭から離れず泣き叫んだという。地獄から救われる方法を求め、自ら修行したとされる場所は今も沼津に残っている。 15歳の時、地元の松蔭寺で出家し、各地を行脚して修行を
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日本左衛門 歌舞伎とは異なる横顔【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑦】
【※2015年2月28日 静岡新聞朝刊掲載】 「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在。(中略)身の生業も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず」。この口上で有名な歌舞伎「白浪五人男」に登場する日本駄右衛門は江戸中期、遠州を中心に東海道筋を荒らし回った実在の大泥棒・日本左衛門がモデルだ。 本名は浜島庄兵衛。金谷宿(島田市)に居住した尾張藩の役人の子で「才知発明器量柔和」と将来を期待されたが、いつしか悪の道へ入り、勘当された。 口上とは裏腹に実際は「敵や手下を簡単に殺せる、残忍で賢く腕っ節の強い男だった」と浜松北部公民館古文書同好会の渡辺弘
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賀茂真淵 つながり深い国学の祖【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑧】
【※2015年3月7日 静岡新聞朝刊掲載】 万葉集などの古典研究に取り組んだ国学の祖として知られる賀茂真淵は江戸時代中期、今の浜松市中区東伊場に当たる遠州国の浜松庄伊場村の生まれ。三方ケ原の戦いで功績を挙げた岡部家の子孫にあたり、徳川家とのつながりは深い。 真淵は幼いころから手習いに優れ、数々の有能な師に導かれて学問の道を進み、8代将軍徳川吉宗の次男田安宗武の和学御用に取り立てられた。賀茂真淵記念館(浜松市中区)の学芸員鈴木理市さんは「3度も養子に出されるなど苦労もあったが、田安のおかげで精力的に研究に向かうことができるようになった」と話す。 記念館には真淵が詠
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田沼意次 時代先取った財政改革【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑨】
【※2015年3月14日 静岡新聞朝刊掲載】 「賄賂政治家の太鼓なら金塊がある」と信じた盗賊が切り刻んだ跡が生々しい。江戸幕府で老中を務めた相良藩主田沼意次ゆかりの陣太鼓が、牧之原市の般若寺にある。「賄賂政治」の印象が強いが、意次は「改革政治家」として近年評価が高まっている。 8代将軍吉宗の緊縮財政で経済停滞を招き、幕府の財政再建を担った意次は重商主義を採用。株仲間(商工業者の同業組合)を認め、見返りに現在の営業税に当たる運上・冥加金を徴収した。外国貿易を促進したり、物価安定を図ったりして財政再建に貢献した。全盛期は相良城を築き、相良港や田沼街道を整備した。住職の西村元英さん
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十返舎一九 往来物書き教育に貢献【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑩】
【※2015年3月21日 静岡新聞朝刊掲載】 今年生誕250周年を迎えた十返舎一九は弥次さん喜多さんの珍道中を描いた滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者として有名。生家の武家長屋があった静岡市葵区両替町1丁目には、歴史資料から場所を特定した駿府十返舎一九研究会(同区、大畑緑郎会長)による立て札がある。 駿府町奉行同心の長男として育ち、18歳の時には文学的才能を見込まれて江戸の句会に参列。そうそうたる顔触れの中で俳句を詠むほど「高い教養の持ち主だった」と大畑会長(70)は話す。神棚に額を打つほど体が大きく、武芸も相当な腕前だったらしい。 当時は木版印刷技術が向上して製紙
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伊奈忠順 村人救った「御厨の父」【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑪】
【※2015年3月28日 静岡新聞朝刊掲載】 宝永年間、富士山の大噴火(1707年)に見舞われた御厨(みくりや)=北駿地域=の人々を命懸けで救った役人がいる。関東郡代、伊奈忠順(ただのぶ)。忠順を「御厨の父」と祭る伊奈神社の田代隆昭宮司(65)は「地域の大恩人であり、強いリーダーシップの持ち主」と功績をしのぶ。 富士山東南の山腹で発生した大噴火は、須走村(現小山町)に3メートル以上もの砂や灰を降り積もらせるなど、北駿一帯に壊滅的な被害をもたらした。田畑を失った村人は幕府に救済を嘆願したが、なかなか聞き入れられず暮らしは困窮を極めた。 噴火の翌年、幕府は忠順を復興
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水野忠邦 「国民守る」志高い老中【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑫】
【※2015年4月4日 静岡新聞朝刊掲載】 江戸時代の三大改革の一つ、天保の改革を推し進めたことで知られる水野忠邦。天下統一を果たした徳川家康にあやかって出世を目指し、実質石高20万石を超す九州の唐津藩から、あえて6万石の浜松藩の藩主になったとされる。 忠邦が1833年に書いた碑文「県居翁霊社」が、国学者賀茂真淵を顕彰する県居神社(浜松市中区東伊場)に残る。裏書きも忠邦の手による。同神社の三浦豊宮司(67)は「老中に上り詰めた忠邦の碑文が、当神社に残っていることは誇り」と胸を張る。 浜松藩主時代に寺社奉行、大阪城代、京都所司代、そして老中へと出世の階段を駆け上が
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江川英龍 幕末の海防政策を主導【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑬】
【※2015年4月11日 静岡新聞朝刊掲載】 世界遺産登録を目指す韮山反射炉の築造を進めたことで知られる幕末の韮山代官江川英龍(坦庵)。黒船来航に始まる混乱期、海防の重要性を説いた先駆者の一人だった。 英龍は早くから蘭学や西洋の技術に関心を持ち、蘭学者の渡辺華山、シーボルトに仕えた幡崎鼎(かなえ)らと幅広く交流して知識を得ていた。江川家に関する資料を管理する江川文庫学芸員の橋本敬之さん(62)は「海防については、韮山代官として管轄する下田港を守る必要から意識し始めたようだ」と推測する。 その後、英龍は幕府に対して海防問題に関する建議書を数多く提出。江川邸に開いた
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岡田佐平治 遠州に報徳思想広める【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑭】
【※2015年4月18日 静岡新聞朝刊掲載】 江戸時代末期に農村の復興に取り組んだ岡田佐平治は、二宮尊徳が提唱した報徳思想を遠州地方に広めた。 掛川市倉真地区にあった集落で生まれた佐平治は、貧困に苦しむ村を救おうと奮闘していた際に、現在の浜松市地域で報徳思想を実践していた安居院庄七と出会う。身の丈にあった生活をする「分度」や譲り合いを大切にする「推譲」といった報徳の教えに感銘を受け、結社をつくり思想を実践する報徳運動を倉真で展開した。 佐平治は農業の生産性を上げるため水路の整備やあぜ道の改修にも取り組んだ。「報徳思想は道徳と経済の一致を目指す考え方。まずは稼ぎ、
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タウンゼント・ハリス 鎖国の日本、開国に導く【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑮】
【※2015年4月25日 静岡新聞朝刊掲載】 「疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福になるだろうか」―。 下田市柿崎の玉泉寺に日本最初の米国総領事館を置いた翌日の1856年9月4日、星条旗を掲揚した初代総領事のタウンゼント・ハリスは日記にこう記した。 当時鎖国中の日本は米政府と日米修好通商条約(58年)を締結した。「徳川幕府がいかにハリスを手厚く迎えたかが分かります」と話すのは、同寺の住職村上文樹さん(64)だ。 当時新築したばかりだった本堂内にはハリスが執務室や寝室として使った部屋が今も残っている。「牛乳が飲みたい」と希望した
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下岡蓮杖 写真術、文明開化先駆け【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑯】
【※2015年5月2日 静岡新聞朝刊掲載】 下田出身で「写真術の開祖」と呼ばれる下岡蓮杖は、地元出身の偉人の中で近年最も関心が高まっている人物だ。狩野派の絵師だった蓮杖は幕末には珍しかった写真に魅せられ、横浜に日本最初の写真館を開いた。 「下田は江戸幕府によって海の関所が置かれた場所。さまざまな文化が往来し、人々の目は自然と外に向けられていった。蓮杖にもそうした土壌が影響している」と話すのは、下田市四丁目の「下田開国博物館」で館長を務める尾形征己さん(72)だ。 蓮杖は当時の人々の生活の様子などを撮影し、白黒写真に着色して外国人たちに販売していた。これが大当たり
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清水次郎長 社会事業に後半生尽力【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑰】
【※2015年4月18日 静岡新聞朝刊掲載】 侠客(きょうかく)として名が通った清水次郎長(山本長五郎、1820~93年)が社会事業家へと転じた時期は、ほぼ明治維新と重なる。1868年に駿府町差配役から清水港の警護を命じられると、アウトロー時代と変わらぬ存在感と行動力で治安維持に当たり、産業振興でも力を発揮した。 「いまの清水港の基礎を築いたのが、次郎長さんの最大の功績の一つ」。次郎長を研究する「次郎長翁を知る会」会長の山田倢司さん(81)は言い切る。 巴川の河口港だった当時の船着き場には、交易の主流になりつつあった大型蒸気船が入れなかった。次郎長は回船問屋の経
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山岡鉄舟 無私の精神で信頼得る【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑱】
【※2015年5月16日 静岡新聞朝刊掲載】 戊辰戦争の戦火が江戸に迫る1868年3月、駿府宿に新政府軍参謀の西郷隆盛を訪ね、徳川慶喜の江戸城無血開城の意向を伝えたのが幕臣山岡鉄舟(1836~88年)だった。鉄舟は翌69年に現在の県副知事にあたる静岡藩権大参事に任命され、牧之原台地の開拓など旧幕臣の地位確保に力を入れた。明治天皇の侍従として絶大な信頼を得た逸話も残る。 静岡市清水区村松の鉄舟寺は、鉄舟の発願を機に再建された。83年に鉄舟が各方面に寄進を求めた文書には、明治維新後の廃仏毀釈(きしゃく)で由緒ある寺が荒廃した現状と、伽藍(がらん)再建を目指す決意がつづられている。
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徳川慶喜 政治を避け平和に貢献【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑲】
【※2015年5月30日 静岡新聞朝刊掲載】 最後の将軍徳川慶喜は江戸城を無血開城して静岡に移り、約30年を過ごした。慶喜の屋敷跡に開業した浮月楼の久保田隆社長(60)は「慶喜があえて政治的発言を避けたことで、静岡の地から血が流れず、国が発展した」と話す。 慶喜は静岡でタカ狩りや投網、写真撮影などに興じた。当時の暮らしぶりを伝える「家扶日記」に、趣味ざんまいだったとの記録が残る。旧幕臣らが連日訪れた様子もうかがえる。「慶喜が多くの人と関わり、政治に触れる発言をすれば、反乱分子の代表に祭り上げられてしまっただろう」 久保田社長は慶喜を語るとき、旧薩摩藩の不平士族に
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中條景昭、大草高重 牧之原大茶園の礎築く【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす⑳】
【※2015年6月6日 静岡新聞朝刊掲載】 東洋一と称される広さ5千ヘクタールの牧之原大茶園。緑色のじゅうたんが広がる美しい景観とブランド茶を生んだ歴史には、旧幕臣たちの血と汗と涙があった。 徳川慶喜の警護として結成され、駿府移住後に精鋭隊から改称した新番組は1869年、天領だった牧之原の開墾を申し出た。明治維新で使命を終え、職を失った旧幕臣は、新たな生活基盤を得るため、刀を鍬(くわ)に変える道を選んだ。 耕作に適さないとされた荒地に、武士の素人作業が加わった開墾は並大抵ではなかった。新番組隊長の中條景昭と副隊長の大草高重らが指揮を執った。牧之原開拓幕臣子孫の会
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関口隆吉 混乱鎮め国家安定に力【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 歴史を照らす㉑】
【※2015年6月13日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川慶喜が、政権を朝廷に返した大政奉還。のちに初代静岡県知事を務める関口隆吉は慶喜の側近として、幕末の混乱を鎮め、近代日本の幕開けに尽力した。 慶喜は、欧米列強と渡り合うには国がまとまる必要があると考え、大政奉還を決断した。だが、旧幕臣の中には不満をくすぶらせ朝廷に抗戦しようとする動きもあった。関口は、慶喜の思いを旧幕臣や朝廷側にも説き、慶喜を朝敵の汚名から守るとともに、国家の安定に骨身を砕いた。 関口の活躍は、明治維新後も目覚ましかった。駿府に移った徳川家に仕え、月岡村(現菊川市月岡)に居を構えて旧幕臣らとともに牧
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久能街道 平和への苦難ほうふつ【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす①】
【※2015年8月15日 静岡新聞朝刊掲載】 平和が続いた江戸時代は人や物の往来が盛んになり、街道筋に町ができるなど、現代の都市形成に大きな影響を残したとされる。特に県内は東海道をはじめ、各地の物産を船で運んだ「海の道」や、全国の信者が集う「信仰の道」などもあり、街道の恩恵を受けて発展した市町が多い。先人たちが歩んだ道を照らし、郷土繁栄の“原点”を見詰め直したい。 静岡市葵区の繁華街を通る旧東海道から久能山東照宮へ分岐する久能街道。起点となる伝馬町通りには「久能山東照宮道」と刻まれた石碑がある。「街道は苦難の末に世を太平に導いた徳川家康公の生涯をほうふつとさせる」
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戦国夢街道 秘められた敗走の歴史【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす②】
【※2015年8月22日 静岡新聞朝刊掲載】 森町が三倉地区の住民とともに整備し、1997年に開通した延べ18・1キロのハイキングコース「戦国夢街道」。ロマンを感じさせるその名前とは裏腹に、秘められた歴史は痛ましい。 天正2(1574)年、若き家康は武田方天野氏の居城「犬居城」(浜松市天竜区)に軍事攻勢をかけた。ところが大雨で気田川が増水し、兵糧も尽きて進軍を断念。軍勢を引き揚げて帰る途中、三倉地区で天野軍の奇襲を受けた。家康は命からがら逃げ延び、天方城(森町向天方)にたどり着いたが、山中の戦いで多くの将兵の命が失われた。 落命した武将たちをまつる「七人塚」は、
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中道往還 軍事用から鮮魚搬送に【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす③】
【※2015年8月29日 静岡新聞朝刊掲載】 静岡、山梨両県をつなぐ街道は古くから栄えた。「御坂路」(沼津-甲府)、身延道とも呼ばれる「河内路」(清水-甲府)が代表的。そして、二つの街道の中間を貫く「中道往還」(富士-甲府)が知られる。 富士宮市教委によると、中道往還は甲斐側の呼称で、駿河側では「駿州中道往還」「甲州街道」などと呼ばれた。戦国時代は軍用道路の側面が強く、徳川家康が礎を築いた江戸時代以降、駿河から海産物を運ぶ「魚の道」に変遷した。 織田信長の生涯を記した「信長公記」に中道往還と家康に関する秘話が残る。信長が本能寺の変(1582年)でこの世
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お茶壺道中 茶業発展の歴史物語る【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす④】
【※2015年9月5日 静岡新聞朝刊掲載】 徳川家康の大御所時代、駿府城に献上された本山茶。その栄誉を今に伝えるイベントがある。JA静岡市などでつくる駿府本山お茶祭り実行委員会が10月に行う「駿府本山お茶壺道中行列」。静岡市街地から50キロも離れた同市葵区井川の大日峠にあるお茶蔵で夏を越した茶をかごに乗せ、久能山東照宮に眠る家康のもとへ献じる。 実際、家康は井川の名主らに茶の保管を命じ、秋に城へ届けさせたと伝わる。新茶が採れる初夏ではなく、なぜ秋だったのか。実行委副会長で茶農家の和田克己さん(77)=同区大原=は「お茶は涼しい場所で熟成させると、一層おいしくなる。大日峠は理に
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清水湊 軍港と物流拠点の役割【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑤】
【※2015年9月12日 静岡新聞朝刊掲載】 静岡市清水区本町。巴川河口に近い岸辺は江戸時代、清水湊(みなと)の中心地として栄えた。廻船問屋が軒を連ねた面影は、現在の街並みにも残る。 大御所時代、湊を見下ろす高台に清水御殿、三保半島に貝島御殿が相次いで建築された。二つの御殿は家康の第10子頼宣が家康に寄進した別荘という名目の下、湊を行き交う船舶を監視する軍事的役割を果たした。フェルケール博物館(同区)の椿原靖弘学芸部長は「家康公は清水湊を軍港と位置付け、天下取りの戦に向けて駿府を守る準備を着実に進めていた」と解説する。 貝島御殿完成からおよそ5年後の1614年に
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新通り 絶大な権力見せつける【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑥】
【※2015年9月19日 静岡新聞朝刊掲載】 静岡市繁華街から郊外の安倍川橋へと延びる同市葵区の新通り。大御所となった徳川家康が駿府城下町を整備した際、それまでは本通りが東海道の一部だったのに、新通りへとルート変更したという。二つの通りは100メートルも離れていない。なぜ、わざわざ変えたのか。「新通りは天下人の威厳を示す道」。江戸中期からわさび漬け店を営む「田尻屋」の8代目稲森良雄さん(72)=同区新通=は話す。 ルート変更には西国の外様大名もひれ伏す視覚効果があったと伝わる。当時、新通りの正面に見えたのは駿府城の巨大な天守閣。その向こうには日本一の富士山がそびえ、ここからの
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箱根旧街道 太平の世 到来示す石畳【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑦】
【※2015年9月26日 静岡新聞朝刊掲載】 三島市と神奈川県箱根町を結ぶ箱根旧街道は標高差約800メートルの東海道一の難所として知られていた。参勤交代はもとより、伊勢参りを目指す庶民らの利便性向上や流通の発展などへ幕府は1680年、街道を石畳に整備した。 三島市郷土資料館などによると、幕府は当初、高低差に加えて街道沿いに宿場町もないことから、「豊臣派」の大名の反乱に備えて旧街道を「天然の要害」と考えていたとみられる。その後、治安が落ち着き、人々の往来も盛んになったことを受け、街道の整備に着手したという。 旧街道で当初用いられたササ竹は定期的に敷き替える必要があ
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遠見番所 繁栄支えた「海の関所」【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑧】
【※2015年10月3日 静岡新聞朝刊掲載】 「下田は陸ではへき地だが、海では玄関口だった。それは江戸時代の初めも、幕末も変わらないんです」 幕末・開港について下田市内有数の資料数を誇る「下田開国博物館」館長の尾形征己さん(73)は指摘する。 江戸幕府は大坂夏の陣翌年の1616年、現在の下田市須崎に「遠見番所」を置いた。主な役割は、江戸の入り口における豊臣方の残党の監視だった。 世の中が安定すると、番所は市内の大浦海岸に移され「船改番所」となった。役割も軍事・警察から、経済的機能に移る。下田の番所は、物資を運ぶ船の「海の関所」となった。船は必ず下田
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下田街道 幕末外交で重要性増す【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑨】
【※2015年10月10日 静岡新聞朝刊掲載】 三島市の三嶋大社を起点に、天城峠を越えて下田市に至る約70キロ。伊豆半島の中央を南北に貫く道は、江戸時代中期ごろから往来が活発になったとみられている。通行には「天城越え」が難所として立ちはだかり、苦労した記録が数々の紀行文や日記などに残る。 街道の重要性は、外国の脅威が迫る中で増していった。1854(安政元)年に日米和親条約が締結されて下田が開港すると、日本の外交に関わる内外の重要人物が往復した。最大の出来事とも言えるのが、57年、下田にいた米国総領事タウンゼント・ハリスの通行だった。 通商条約締結のため江戸に向か
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田沼街道 老中の功績 地元に定着【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑩】
【※2015年10月17日 静岡新聞朝刊掲載】 牧之原市の相良城跡から藤枝市の旧東海道に架かる勝草橋を結ぶ全長約28キロの田沼街道。江戸幕府の老中で相良藩主だった田沼意次(1719~88年)によって整備された。この街道によって牧之原市周辺は塩田開発や商業振興に恩恵を受けたといわれる。いまも県道藤枝大井川線が通称「田沼街道」と呼ばれるのは、田沼を慕う地元住民の気持ちの表れのようだ。 田沼は賄賂を横行させた悪名高い老中と思われがちだが、近年その評価が変わり始めている。藤枝市郷土博物館の学芸員海野一徳さん(40)は「商業を重んじる先進的な姿勢が評価されている」と話す。当時はご法度
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大井川の川越し 旅人足止め 宿場町繁栄【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑪】
【※2015年10月24日 静岡新聞朝刊掲載】 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれ、東海道最大の難所として恐れられた大井川。江戸時代の大名行列や旅人は、増水によって何度も川留めに遭った。だがそれは、大井川を挟んだ島田、金谷の両宿場町に繁栄をもたらした。 当時、幕府は主要河川の架橋を禁止し、大井川では川越しを手助けする川越人足が現れた。1696年には、料金などを定めて運営を組織化した川越制度が確立した。 幕末になると人足は650人に達した。制度は治安目的だけでなく、人足の生活を守るためでもあった。 最長28日間に及んだこともあ
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見尾火灯明堂 夜通し番 海の安全守る【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑫】
【※2015年10月31日 静岡新聞朝刊掲載】 江戸に幕府が置かれると、上方(大阪)との物資輸送が盛んになり、御前崎沖を行き交う回船も増えた。いわば海の東海道ができたが、この海域は海流が速く、暗礁も無数にあり難所だった。 幕府は寛永12(1635)年、3代将軍家光の時代に海上から現在位置を確認する目印として、御前崎の突端に「見尾火灯明堂」を設置した。 文献によると、灯明堂は高さ2・6メートル、縦横3・6メートルの大きさ。中には三方を障子張りにしたあんどんが置かれ、種油で明かりをともした。日没から夜明けまで村人が2人一組で夜通し番をしたといわれる。
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掛塚湊 海と川つなぐ物流拠点【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑬】
【※2015年11月7日 静岡新聞朝刊掲載】 天竜川河口の磐田市掛塚地区。10月の秋祭り、豪華な彫刻が施された唐破風屋根の屋台がいくつも町を行き交った。江戸から明治にかけて繁栄を極めた「掛塚湊(みなと)」。当時建造された屋台は時代を超えて受け継がれ、その歴史を今に伝えている。 徳川家康は1607年、角倉了以に命じて天竜川の舟運を開発させた。掛塚湊は幕府の御用船の湊となり、上流の木材や産物を江戸や大坂に運搬する拠点として発展。城の用材や年貢米の運送にも利用され、江戸のまちづくりに一役買った。 明治維新後、多くの建築物が建てられ材木の需要が増すと、湊はさらに活気づい
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秋葉街道 常夜灯、今も信仰の象徴【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑭】
【※2015年11月14日 静岡新聞朝刊掲載】 浜松市浜北区根堅の国道152号と国道362号の交差点。旧東海道浜松宿(同市中区)と秋葉山(同市天竜区)を結ぶ秋葉街道と、気賀(同市北区)で姫街道から分かれた別の秋葉街道が交わる場所に「秋葉山」の文字が彫られた石造りの常夜灯が残る。 秋葉山は江戸中期から「火防の神」として信仰された。庶民は「秋葉講」と呼ばれる組織をつくり、交代で参詣した。街道沿いには「秋葉灯籠」と呼ばれる常夜灯が建立され、浜北区をはじめ、遠州各地に残る。彫刻を施した覆屋のある「龍燈」も多く、道標としてだけでなく、今も地域の信仰の象徴となっている。 二
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姫街道 東海道避け往来盛んに【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑮】
【※2015年11月21日 静岡新聞朝刊掲載】 浜松市北区細江町の気賀商店街。メーン通りから狭い路地を入ると、重厚な瓦屋根が見える。1601年、東海道の脇街道だった「姫街道」に設けられた気賀関所の屋根の一部。往時の面影を今に伝える唯一の痕跡だ。 姫街道は、磐田市の見付宿と愛知県豊川市の御油宿を結ぶ約60キロの街道。奈良時代に役人が利用したのに始まり、あまたの文人墨客も訪れ歌や紀行の題材に取り上げられた。 江戸時代には、取り調べが厳しいことで知られた新居関所を避けた人々が好んで通ったとされる。1707年の宝永地震で浜名湖の今切口周辺が陥没し東海道の通行が困難になる
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新居関所 江戸防衛で監視の役目【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 道を照らす⑯】
【※2015年11月28日 静岡新聞朝刊掲載】 「全国で唯一現存する関所」として知られる湖西市新居町の新居関所。徳川家康が関ケ原合戦に勝利した1600(慶長5)年、浜名湖岸に設置された。 江戸幕府は防衛のため東海道の要所に関所を設けた。江戸への武器持ち込みや幕府への謀反を厳しく監視する役目から「入り鉄砲に出女」の言葉も広まった。一方、武器を取り締まる新居で江戸時代から手筒花火が行われていた。幕府の信頼の厚さをうかがわせる。 現存するのは関所役人が詰める面番所の建物。安政東海地震で倒壊後、1858(安政5)年までに再建された。それ以前にも高潮と津波で2度、損壊と移