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天下人が築いた理想都市【大御所の遺産探し 家康公顕彰400年 駿府城下町を照らす】

駿府ウエイブ会長の川崎勝彦さん(手前)とともに歩いた徳川家康の城下町。「平和の到来を象徴する計画都市」との説明に誇りを感じた=20日午後、静岡市葵区の伝馬町
駿府ウエイブ会長の川崎勝彦さん(手前)とともに歩いた徳川家康の城下町。「平和の到来を象徴する計画都市」との説明に誇りを感じた=20日午後、静岡市葵区の伝馬町

【※2014年5月27日 静岡新聞朝刊掲載】
 江戸幕府を開き、約260年間に及ぶ太平の世を築いた徳川家康。来年の顕彰400年記念事業を控え、県内では偉業をたたえるイベントなどが既に始まっている。特に静岡市は、家康が生涯で最も長い27年間を過ごし、大御所政治を行ったゆかりの地。観光ボランティアガイド「駿府ウエイブ」会長の川崎勝彦さん(72)と駿府城下をたどると、まちの発展に心を砕いた天下人の姿が見えてきた。
町自体が平和の象徴
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  出発地点は駿府城公園に復元された東御門と巽櫓[たつみやぐら]。門の天井を眺める。太い梁[はり]に驚いた。「直径1・5メートルで、1本数千万円と聞きます。城がいかに立派だったか分かるでしょう」と川崎さんが誇らしげに語る。
  近くにある石碑に駿府96カ町の町名が記されていた。中には新谷町[しんがいちょう]や下石町など聞き慣れない町名もある。明治以降の町名変更をはじめ、昭和時代の静岡大火(1940年)や静岡空襲(45年)から復興した際などに消滅したそうだ。
  公園から県庁を抜けて繁華街に入る。呉服町通りと七間町通りが交わる札之辻は城下町の“へそ”で、家康は城下を開く際、それまで約200メートル西に位置していた東海道をわざわざ札之辻付近に移し替えたという。理由を尋ねると、川崎さんは来た道を振り返った。「ここからはかつて、天守閣と富士山が一直線に見えたはず。大御所の威厳を示す演出だったんでしょう」
  日銀静岡支店付近にあった金座なども、家康が貨幣を鋳造して経済を握っていた証し。当時の推定人口は12万人。江戸や大坂、京に並ぶ大都市だったとされる。
  町域をぐるりと巡る道すがら、一つ気になった。それは水。これだけの人口を賄う水を、どう守ったのだろう―。「清水尻[しみんじり]」。川崎さんは答えにつながるキーワードを教えてくれた。
  8キロ北の鯨ケ池から城の堀へ注ぐ御用水とは別に、生活用水は安倍川から引き入れたり、伏流水を活用したり―。そして、清流が流れる最後の地点が清水尻。つまり、城下町の境界で、現在の国道1号付近だ。清流を守るため、染め物や金属加工などの職人町が境界周辺に配置されたという。碁盤目状の各ブロックの中央にも「せり」と呼ばれる空き地を設け、共同ごみ置き場にしていた。現代でもかなわないほどの計画都市ぶりに圧倒された。
  駿府の地で、理想的な都市の建設に情熱を傾けた家康。川崎さんは大御所の思いを代弁するように、城下町の意義を語った。「戦乱の世では、城下町はつくれない。静岡の町の存在自体が、平和な時代の到来を告げる象徴だったのかも」
  “元祖平和都市”に暮らしている誇り。「家康さんの業績を、もっと知ってもらいたい」。川崎さんの一言が胸に響いた。
旧東海道の要衝 呉服町 老舗の多さ全国屈指 江戸からにぎわう中心街
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  徳川家康が駿府城で大御所政治を行って以来、静岡市葵区の呉服町通りは中心市街地としてにぎわう。老舗の多さは全国屈指とされ、江戸時代から続く店舗も6軒ある。
  呉服町の町名は、木綿などを販売する同業者組合「木綿座」を取り仕切り、城下町の町割りにも携わった豪商友野宗全(伴野宗善)にちなむといわれる。通りの一部は旧東海道でもあり、参勤交代の大名行列や旅行者も通行する要衝だった。
  江戸時代から続く店舗は化粧品・婦人子供服販売の「ふしみや」(創業1607年)や干物店の「平野屋」(同1673年)、インテリア用品・日用雑貨店の「三保原屋」(同1687年)など。このうち、最も長い歴史を持つふしみやは家康が江戸から駿府へ移った際、初代小山善蔵を京都・伏見から城下に呼び寄せたのが始まりという。
  その後、城の御用商人、豆腐の商いなどを経て、今の業態になったのは幕末・明治初期から。同社には大坂で起きた「大塩平八郎の乱」(1837年)で、奉行所から下手人探索への協力を求められたことを記した「御書上留帳[おかきあげどめちょう]」など、当時の町人生活を知る貴重な史料も伝わる。
  今年で創業407年。屋号が守られた理由を、小山公康代表取締役社長(45)=18代目=は「歴代当主は自ら接客を行うなど、地道な経営者ばかり。現場主義に徹することで時代の変化を感じ取り、うまく対応してきたのでは」とみる。
天守閣復元は可能? 研究者で異なる見解
  市民から復元の要望が根強い駿府城天守閣。静岡市は過去に「市駿府城天守閣建設可能性検討委員会」を設置したが、現時点で具体化していない。有識者からは復元は難しいとの指摘がある一方で、現状でも再建は可能とする声もある。
  同市では22年前に市民有志による再建資金の調達活動が行われ、天守閣復元へ機運が盛り上がった。その後も継続的に検討され、市は2008年に同委員会を設置して可能性を探った。
  しかし、徳川家康の大御所時代の天守閣は実際に存在した期間が短く、建物の高さなどを示す図面や記録も発見されなかった。このため、同委員会は10年、史実に沿った再現は難しいとして、復元に否定的な見解を示した。
  当時、委員を務めた小和田哲男静岡大名誉教授は「財政面をクリアできたとしても、現状では困難。市民や観光客をかえってがっかりさせてしまう」と厳しい目を向ける。
  一方、元同市駿府城天守閣等関連史料主席調査員で郷土史研究家の黒沢脩さん(68)の見方は異なる。これまでに国内外500カ所を調査した結果、日光と和歌山の二つの東照宮絵巻に描かれた駿府城天守閣は唐破風[からはふ]などの形状や外観が一致し、大工頭を務めた中井正清が駿府城とほぼ同時期に建てた名古屋城や二条城、江戸城の図面を応用するなどすれば、復元は可能と主張する。
  黒沢さんは「天守閣が建てば、市民はかつて静岡が『首都』だったことに誇りを持てるようになる。世界にも情報発信できる」と訴える。
※年齢、肩書は当時 photo01

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